序 「“機銃を浴びせて手当てする”―― 欺瞞だ。見れば見るほど、欺瞞に胸がムカついた」
「 友愛外交というのは難しいテーマではありますが、それを現実に行ってきたのがヨーロッパ、EU(欧州連合)であることを考えたときに、敵視し合っていたフランスとドイツとの間でも、最終的に友愛外交に基づいて、結果としてあのようなEUができあがったことを考えたときに、今、世界がそのことをあきらめてはいけないと。私はそう思っております」(「産経ニュース 2009年5月26日」)
この国に、こんな欺瞞的な言葉を、全く外連味(けれんみ)もなく、堂々と声高に語って見せる人間がいる。
当人は政治家であるばかりか、2010年6月上旬まで、この国の総理大臣を務めた人物であるから余計に厄介なのだ。
件の発言の主は、かつての同志から、「功名心や自己愛の度が過ぎると、首相は自ら墓穴を掘るだけでなく、国の墓穴を掘ることにもなりかねない」(「ダイアモンド オンライン」 5月7日 田中秀征)とまで扱き下ろされていた。
何より、EUの発足の推進力が、2度に亘る欧州戦争の自壊的な歴史の反省に則っているとは言え、それは単に「友愛外交」に基づいた精神を起動点にしているのではなく、まさに、「損得原理」による「国際政治のリアリズム」の産物であったことは明瞭である。
「ヨーロッパの指導者がリスボン条約のポテンシャルを十分に引き出せなければ、アメリカ、そしてブラジル、中国、インドのような新興大国が世界の流れを形作るなか、ヨーロッパは傍流に取り残されてしまうだろう」(「アサヒ コム」)
これは、2009年12月、リスボン条約(EU大統領とEU外相という2つのポストを新設して、共通外交政策を実現すると宣言)の発効を受けて、スチュアート・アイゼンシュタット(元駐EUアメリカ大使)が、「フォーリン・アフェアーズ・リポート」に書いた論文の一部である。
この危機意識こそが、「損得原理」による「国際政治のリアリズム」以外の何ものでもないだろう。
「 友愛外交というのは難しいテーマではありますが、それを現実に行ってきたのがヨーロッパ、EU(欧州連合)であることを考えたときに、敵視し合っていたフランスとドイツとの間でも、最終的に友愛外交に基づいて、結果としてあのようなEUができあがったことを考えたときに、今、世界がそのことをあきらめてはいけないと。私はそう思っております」(「産経ニュース 2009年5月26日」)
この国に、こんな欺瞞的な言葉を、全く外連味(けれんみ)もなく、堂々と声高に語って見せる人間がいる。
当人は政治家であるばかりか、2010年6月上旬まで、この国の総理大臣を務めた人物であるから余計に厄介なのだ。
件の発言の主は、かつての同志から、「功名心や自己愛の度が過ぎると、首相は自ら墓穴を掘るだけでなく、国の墓穴を掘ることにもなりかねない」(「ダイアモンド オンライン」 5月7日 田中秀征)とまで扱き下ろされていた。
何より、EUの発足の推進力が、2度に亘る欧州戦争の自壊的な歴史の反省に則っているとは言え、それは単に「友愛外交」に基づいた精神を起動点にしているのではなく、まさに、「損得原理」による「国際政治のリアリズム」の産物であったことは明瞭である。
「ヨーロッパの指導者がリスボン条約のポテンシャルを十分に引き出せなければ、アメリカ、そしてブラジル、中国、インドのような新興大国が世界の流れを形作るなか、ヨーロッパは傍流に取り残されてしまうだろう」(「アサヒ コム」)
これは、2009年12月、リスボン条約(EU大統領とEU外相という2つのポストを新設して、共通外交政策を実現すると宣言)の発効を受けて、スチュアート・アイゼンシュタット(元駐EUアメリカ大使)が、「フォーリン・アフェアーズ・リポート」に書いた論文の一部である。
この危機意識こそが、「損得原理」による「国際政治のリアリズム」以外の何ものでもないだろう。
実際、PIIGS危機の象徴でもある、「ギリシャの財政破綻」の渦中にあって、「共通外交政策よりも自国の利益を優先、『身勝手な指導者』が欧州をむしばんでいる」(「ニューズウィーク日本版 5月14日配信」)とさえ書かれるように、EU内部で出来している現実は、「友愛外交」によって「万事目出度し」という軟着点を見つけるのが難しい現実がある。
これが、「国際政治のリアリズム」の21世紀序盤の状況なのだ。
もう一つ。
卑近な例をあげる。
「本当に小沢先生(一郎幹事長)には本当に長い間、もう、田村亮子時代からずっと応援をしていただいておりまして、本当に、うん、地球を覆うほどの愛で、うん、がんばりたいなという気持ちです」(「産経ニュース 2010.年5月10日」)
この言葉を耳にしたとき、正直、私は驚いた。
と言うより、心の底から湧き起こる憤怒の感情を抑えられなかったほどだ。
「地球を覆うほどの愛」などと、シャーシャーと言ってのける人物が、この年の参院選に立候補声明したのである。
この国は、もう終わりではないか。
そう、思った。
これが、「国際政治のリアリズム」の21世紀序盤の状況なのだ。
もう一つ。
卑近な例をあげる。
「本当に小沢先生(一郎幹事長)には本当に長い間、もう、田村亮子時代からずっと応援をしていただいておりまして、本当に、うん、地球を覆うほどの愛で、うん、がんばりたいなという気持ちです」(「産経ニュース 2010.年5月10日」)
この言葉を耳にしたとき、正直、私は驚いた。
と言うより、心の底から湧き起こる憤怒の感情を抑えられなかったほどだ。
「地球を覆うほどの愛」などと、シャーシャーと言ってのける人物が、この年の参院選に立候補声明したのである。
この国は、もう終わりではないか。
そう、思った。
冷徹なリアリズムの政治の世界で、偽善と欺瞞の言辞が飛び交う現象が澎湃(ほうはい)するということは、シビアな「現実」を直視する能力が劣化していることの現れ以外の何ものでもないだろう。
こんなことを考えていたら、ふっと、或る映画の、或る場面を思い出した。
フランシス・フォード・コッポラ監督による「地獄の黙示録」(1979年製作)である。
何より、「地獄の黙示録」は欺瞞を撃ち抜く映画であった。
それ故、ニューシネマの極北的ポジションを占有したと言っていい。
映画の登場人物たちも、欺瞞という言葉を、粗い感情を込めて何度放っただろう。
「“機銃を浴びせて手当てする”―― 欺瞞だ。見れば見るほど、欺瞞に胸がムカついた」
映画の主人公のウィラード大尉は、最悪なる戦場に向かう哨戒艇の中で、その否定的な感情を吐き出していた。
こんなことを考えていたら、ふっと、或る映画の、或る場面を思い出した。
フランシス・フォード・コッポラ監督による「地獄の黙示録」(1979年製作)である。
何より、「地獄の黙示録」は欺瞞を撃ち抜く映画であった。
それ故、ニューシネマの極北的ポジションを占有したと言っていい。
映画の登場人物たちも、欺瞞という言葉を、粗い感情を込めて何度放っただろう。
「“機銃を浴びせて手当てする”―― 欺瞞だ。見れば見るほど、欺瞞に胸がムカついた」
映画の主人公のウィラード大尉は、最悪なる戦場に向かう哨戒艇の中で、その否定的な感情を吐き出していた。
そのウィラード大尉の否定的な感情を、私もまた、そのまま受け止めておこう。
偽善と欺瞞の言辞が飛び交う現象の澎湃は、臆面もなく、奇麗事を吐く輩が跋扈(ばっこ)しているから始末が悪いのだ。
そんな薄気味悪い社会に呼吸を繋ぐことに吐き気すら覚える昨今だが、折しも、「北條民雄全集」を読むことで、偽善と欺瞞と奇麗事が全く通用しない世界の内に誘導されていく時間を、私は今、「同質効果」の心理学として有効に活用しているが、それは同時に、脊髄損傷の身を一生背負っていく覚悟をどうやら固めることができた、己が自我の生存戦略でもあった。
偽善と欺瞞と奇麗事が全く通用しない世界。
そんな世界と出会えないことは重々承知しているが故に、せめて「映画の中の決め台詞」から、気に入った啖呵や文言を拾っていこう。
偽善と欺瞞の言辞が飛び交う現象の澎湃は、臆面もなく、奇麗事を吐く輩が跋扈(ばっこ)しているから始末が悪いのだ。
そんな薄気味悪い社会に呼吸を繋ぐことに吐き気すら覚える昨今だが、折しも、「北條民雄全集」を読むことで、偽善と欺瞞と奇麗事が全く通用しない世界の内に誘導されていく時間を、私は今、「同質効果」の心理学として有効に活用しているが、それは同時に、脊髄損傷の身を一生背負っていく覚悟をどうやら固めることができた、己が自我の生存戦略でもあった。
偽善と欺瞞と奇麗事が全く通用しない世界。
そんな世界と出会えないことは重々承知しているが故に、せめて「映画の中の決め台詞」から、気に入った啖呵や文言を拾っていこう。
(新・心の風景/映画の中の決め台詞 その1 〈欺瞞を撃ち抜く台詞集〉 )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2010/06/blog-post.html