善き人のためのソナタ('06)  フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル <スーパーマンもどきの密かな睦み―或いは、リアリズムとロマンチシズムの危うい均衡>

イメージ 11  「善き人」に変容していく心理的プロセスの跳躍(1)



本作への私の感懐を、もう少し具体的に書いてみる。

結論から言って、作品の出来栄えは決して悪くない。充分に抑制も効いている。テンポも良い。映像の導入も見事である。

そして何より、本作の背景となった社会の権力機構の描写については、相当のリアリティを感じさせる重量感を持っていて、一つの時代の、特殊な国家の、その特異な有りようが、観る者の皮膚感覚にダイレクトに伝わって来たのも事実。

「フロリアンヘンケルス・フォン・ドナースマルク監督は、この映画のため4年間にわたって徹底的にリサーチをしました。自身は当時の西ドイツ出身のため、旧東ドイツの実態をつかむまでにこれほどの時間を要したとのこと。
 
大量の文献を読み、当時の東ドイツを知る人々、元シュタージ職員、その犠牲者に実際に会って何時間もインタビューする。その中で多くの矛盾する話も聞いたけれど、最終的にはこの時代の一つのまとまったイメージ、この時代が抱えていた問題をはっきりとつかむことができたそうです。また出演者やスタッフの中にも多くの旧東ドイツ出身者がいて、彼らの個人的経験はこの映画に多大な真実味を与えたと言います」(「All About」2007年 1月 31日より)

以上の一文を読んで了解し得るように、本作を映像化するに当って、ケルン生まれの若き監督が、4年間にも及ぶ丹念な取材を経てきたという営業努力が、その初の長編作品に結実したのであろう。

しかし、少々厭味を込めて言えば、彼の営業努力の成果が映像に反映されたのは、国家保安省(シュタージ)に象徴される全体主義国家の権力機構の内幕に関する描写においてであって、殆どそれ以外ではなかったと思われるのである。
シュタージの養成機関での教育、盗聴の実態とその乱暴極まる情報収集の現実、そしてシュタージによって盗聴される側にいた、「反国家分子」と称される者たちの置かれた不安と恐怖に満ちた生活の実態、等々についての描写は相当のリアリティを保証するものだったが、残念ながら、映像のリアリティはその範疇を逸脱することが叶わなかった。

なぜなのか。

「シュタージの実態を抉った問題作」としての評価が定まった感のある本作が、「理念系の快走(?)」によって突き抜けてしまっていたからである。
“この曲を聴いた者は、本気で聴いた者は、悪人になれない”などという、恥ずかしくなるほどのスーパーインポーズに込められた、あまりに創作的で青臭いメッセージに集約される映像には、一貫して「感動のヒューマンドラマ」を、些かロマンティシズムの濃度の深い視界に捕捉して止まない作り手の意図が、観る者に容易に見透かされる甘さを露呈していたと言わざるを得ないのだ。

それにも拘らず、それが特段の厭味にならない程度の緩衝地帯、即ち、限定的なリアリズムによって相対化された映像導入が、際立って目立たない限りの作為性を、一定程度中和化することで補償された作品の質は効果的だったが、しかし相当に危うい均衡をギリギリに保持し得たという印象だけは拭えなかったのも事実。 

この種の問題作を映像化するにしては、そのプロット展開のサスペンスフルな娯楽性と、充分過ぎるほどの巧妙な創作性の濃度の深さが、結局、女の死を前提にしなければ成立し得ないだろう予定調和のエンディングの嵌め方の内に、奇麗に流れ込む以外に軟着できなかった映像の嘘臭さを浮き上がらせてしまったのである。

我が国において信じ難いほどに評判の良い本作に、重箱の隅を突(つつ)くレベルの悪態をつくのが本稿のテーマではないから、本質的なことだけを言及する。

本作を観始めて暫くして、私にはどうしても最後まで了解し難い描写があって、それがこの作品に対する評価を貶めている決定的な因子になってしまったのである。

端的に言えば、主人公の心理描写が比較的丹念に描かれていながらも、最も重要な局面における心理の微妙な綾についての描写が、何かそこだけは殆ど無造作に素通りしている感じが否めないのだ。言わずもがなのことだが、最も重要な局面とは、主人公のシュタージ局員が「西側」の文化・生活を彷彿させる様態に触れて、「善き人」に変容していく心理的プロセスの場面である。

「あり得ない」と、私は率直にそう思った。

正確に言えば、人間の精神的営為に関わることで「あり得ない」と言い切れる現象は少ないだろうが、少なくとも、本作で提供された描写に限って言えば、主人公のシュタージ局員の内面世界の中で、「変容」への「飛躍」を「予約」させるような決定的な心理の蓋然性が殆ど存在しないと言っていいのだ。

たとえ、それが「映画の嘘」と分っていながらも、テーマとした問題の深甚さを考えるとき、私にはとうてい首肯しかねる表現の内実であったのである。

なぜなら、本作と付き合っていく中で、或いは作り手自身が、「どのような『悪人』でも、『善性』を持っている」という類の普通の人間学的な把握を突き抜けて、「だから『悪』もまた、ヒューマンな振舞いや『優れた』音楽、文学と遭遇するだけで、『善』に変容する」という殆ど宗教的な人間観を確信的に抱懐していて、達者な映像表現力のストーリーテラー的な全開の中に、却って作り手自身の人間理解の底の浅さを露呈させているのではないかと訝(いぶか)る思いが、私の内側で沸々と沸き起こってきたのである。

要するに、そのリアリズム感覚の非武装性、鈍感さが看過できなかったということだ。
 
 
(人生論的映画評論/ 善き人のためのソナタ('06)  フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル <スーパーマンもどきの密かな睦み―或いは、リアリズムとロマンチシズムの危うい均衡>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/03/blog-post.html