うなぎ(‘97) 今村昌平 <世俗世界の裸形の様態を、限りなく包括的に拾い上げる「人間賛歌」の傑作>

イメージ 11  自己の分身を外在化させた「うなぎ」との不離一体の関係という防衛機制
 
 
 
ごく普通の真面目な印象を受けるサラリーマンの山下拓郎が、妻の不倫の現場を目の当たりにして、激しい憤怒を炸裂させ、その場で妻を刺殺する事件を起こしたのは、1988年夏のことだった。
 
 妻の不倫の事実を知ったのは、それを告発する差出人不明の手紙を受け取ったからである。
 
 その山下が再犯の怖れがない等々の理由で、刑務所を仮出所したのは、事件後8年のこと。
 
仮出所した山下は、保護司である、千葉県佐倉市の住職・中島の世話で、利根川沿いに小さな理髪店を開業するに至った。
 
 これが、冒頭のシークエンス。
 
妻を殺害した後、自転車に乗って、「夜霧よ、今夜も、ありがとう」などと歌いながら、警察に自首する男の心理を支配するのは、明らかに、忌まわしい事件に対する後悔の念が全く存在しないことを意味している。
 
その意味で、仮出所の重要な要件の一つである「悔悟の情」が欠落しているが、その辺りは中島の機転で巧みにクリアしたのだろう。
 
だから当然、中島自身も気づいていたのは事実だが、潔癖過ぎるほどの山下の生真面目な性格を評価する思いが強かったに違いない。
 
ではなぜ、山下は妻殺しというおどろおどろしい行為に走ったのか。
 
深く愛するが故の嫉妬が、激しい憤怒による情動炸裂に結ばれたのか。
 
潔癖過ぎるほどの生真面目な性格が、理性系を抑制できなかたのか。
 
明瞭に説明できないところが、人間の分りにくさとも言える。
 
少なくとも、自らの行為に深い後悔の念を垣間見せなかったのは事実だった。
 
寧ろ、一過的に浄化する気分に近かったと思われる。
 
それは、彼にとって、愛する妻に長い間裏切られていた行為に対する正統な報復であって、それ以外の何ものでもなかったのだ。
 
だから刑務所でも、強い贖罪観念に悩まされることなく、その本来的な生真面目な性格で、囚人としての非日常の日々を淡々と繋いでいたに違いないことが想起される。
 
今村昌平監督がその辺の事情を全く描かないのは、既に、提示された映像のみで、観る者は理解できると考えているからだろう。
 
 ここで興味深いのは、女性の声でボイスオーバーされる、妻殺しの男に届いた匿名の手紙を書いた者が、一体、誰であったかについて、最後まで分らないということである。
 
 自らが関心を持たない対象をエピソードに結ぶことを嫌う今村昌平監督にとって、手紙の犯人探しのサスペンスなどは、近所の好奇心旺盛な主婦であるという印象を持たせるだけで、どうでもいいことだったのか。
 
 「手紙なんか最初からなかった。お前の嫉妬が生んだ妄想なんだ!」
 
山下の幻想の中に現出する、この刑務所仲間の高崎の物言いのカットに引っ張られやすいが、この分りやすいカットの挿入で、寧ろ、山下の妄想というよりも、彼自身が、妻殺害の決定的契機になった匿名の手紙のリアリティに対して、疑心暗鬼の心理に捕捉されている現実を検証するものと考えられる。
 
従って、ここは、否応なくインボルブされる外的状況に、山下の自我が制御し得ない内的状況の混迷を表現しているのだろう。
 
いずれにせよ、極端に人間不信になった潔癖な男が、それでも生きていくには自我をスモール化して、在るがままに受け入れてくれる存在を必要とするだろう。
 
ここで言うスモール化とは、生存を除く人間の根源的営為を排除することである。
 
山下の場合、具体的には、特定他者との「共有関係」と「性的関係」である。
 
彼は、この人間の根源的営為を排除することで自我をスモール化し、特化されたスポットで呼吸を繋いでいった。
 
生殖と無縁な一匹の〈生〉の限定的対象に一方的に語りかけ、それを全面的に受け入れてくれる自我防衛の戦略は、自己の分身を外在化させることであった。
 
それが、「うなぎ」だったという訳である。
 
「うなぎ」は、山下自身の分身であると言っていい。
 
「俺はここが気に入った。お前はどうだい?ムショの池より、よっぽど気分がいいだろ」
 
利根川の河辺に住むことが決まったときの、山下の語りかけである。
 
「うなぎ」のように、余計なことを語ることなく、誰とも共存・共有せず、限定的な小さなスポットで静かに呼吸を繋いでいくこと。
 
それだけで充分だった。
 
「話を聞いてくれるんです。それに余計なことを喋りませんから
 
保護司の中島に語った山下の言葉である。
 
だから、人好きのする隣家の船大工・高田に誘われ、鉄製の突き刺し具の「ヤス」で突くうなぎ漁に対し、「この漁は、あまり好きになりません」と反応するのは当然だった。
 
自身の分身である「うなぎ」を傷つけることなど、あってはならないのである。
 
その夜、山下は「うなぎ」の悪夢にうなされる。
 
そこまで彼は、「うなぎ」と一心同体になっているのである。
 
この心理を、「防衛機制」と説明してもいい。
 
防衛機制とは、自我が傷つくのを防ぎ、心理的に安定した状態を保持するための心理的作用である。
 
因みに高田は、「ヤス」に代わって、筒状の罠を仕掛けて捕捉する「タカッポ」の漁を山下に教え、共にうなぎ漁の時間を共有していく。
 
女房に死なれて独身の高田は、何気に山下の女房について尋ねるが、「もう、女は沢山です」と答えるのが精一杯の山下。
 
常に、他者との距離を確保することに執心する山下にとって、自己の分身を外在化させた「うなぎ」との不離一体の関係だけが、それ以上ない心の拠り所であった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/うなぎ(‘97) 今村昌平 <世俗世界の裸形の様態を、限りなく包括的に拾い上げる「人間賛歌」の傑作>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/12/97.html