1 家族の漂動の中枢に、「ディスコミュニケーション」の発動点になっている男が居座っていた
「その夜の侍」に次いで、またしても、赤堀雅秋監督は凄い傑作を世に問うてくれた。
心が震えるような感動で打ちのめされ、言葉も出ない。
5人の俳優の完璧な演技力。
邦画界が誇る素晴らしい俳優である。
新井浩文はいつもいい。
嫌味な役柄を演じ切った田中麗奈の感情表現力も出色だった。
―― 以下、批評したい。
「家族崩壊」を描く、この映画の家族の関係構造を端的に映し出したシークエンスがある。
映画の中で、このシークエンスほど当該家族の実質的破綻が表現された描写がないので、以下、この辺りから言及していく。
―― 2人目を妊娠している長男・保夫婦の結婚記念日に、保の義父母も招待し、20年通う馴染みの中華レストランで、映画の主人公・葛城清が、ウェイターに味の文句を執拗に垂れるシーンがある。
「前はこんなに辛くなかったぞ、麻婆豆腐。いつ味を変えたのか知らないけど、こんだけ辛いんなら事前に説明しないと。日本人、バカにしてるんじゃないか!」
恐らく、いつもこのような調子なのだろうと思わせる、モンスタークレーマーと化した葛城清の傲岸不遜(ごうがんふそん)の態度が暴れ捲っていた。
そして、これも、いつもこんな風に委縮するのだろうと思わせる長男・保の制止に聞く耳を持たず、すっかり会食の場を壊してしまったシーンの中に、周囲の空気をあえて読まず、自分の権威と影響力を誇示したがる男の尊大な性格が集中的に表現されていた。
自分より弱い立場の者には強く出てしまうこの尊大さには、親から受け継いだに過ぎない金物店を営み、新築した庭付き一戸建ての理想の家と家族を持ち、「一国一城の主」として君臨する家父長的性格が張り付いている。
この直後、葛城家のリビングで、保夫婦の子供を預け、留守番を任せられていた清の妻・伸子は、その子供が怪我を負ったことで、清から厳しく詰問(きつもん)される。
「本当にごめんなさい。…許してちょうだい」
「遅いな、救急車」などと言って、保の嫁も夫に不満を炸裂するが、「大袈裟なんだよ、お前は」と、妻に向かって宥(なだ)めるだけの保。
そこに、二階の部屋から降りて来た次男・稔が、無言で冷蔵庫のドリンクを飲み始める。
「ちゃんと説明しろ」
稔を視認した父・清は、妻・伸子を責め立てるのみ。
短気な夫を恐れる伸子は、預かった子供の怪我の原因が、追いかけっこをして、テーブルに頭を打ったからであると、恐々と弁明するのだ。
それを耳にした保は、母が明らかに、稔を庇って嘘をついていると察知する。
それは、父・清にも把握できていたに違いない。
「お前、何か知っているか?」
だから直接、清は稔に事情を訊(き)くが、稔からの反応はない。
その稔は無言のまま、メモに何かを書き出した。
「もういいから、お前、上、上がってろ」
事を荒立てないように常に配慮する保は、そう言って、稔を促す。
「ちゃんと、しゃべって伝えろよ!」
稔を見ることなく、伸子に向かって声高に言い放つ清。
「今、声優、目指してるんだって。だから、喉、大切にしたいみたい」
次男の心情を代弁する伸子の稚拙すぎるこの説明が、かえって、稔を庇う本音を曝(さら)け出しているのだ。
この辺りに、「子供の自我を作り、育てる母親」という枢要な役割を担う意識・教養の欠如が、伸子に垣間見えるが、この情報は、他の家族にも共有されていると考えられる。
大体、長男夫婦の結婚記念日に母親が出席することなく、夫婦の幼い子供の子守を任されている現実が示唆するのは、乱雑な二階の部屋で引きこもっている稔に社会的適応力のみならず、留守番すらも満足にできないパーソナルな欠点を露呈するものだった。
そして、その稔が、「おれがなぐった」というメモを、保に投げつけた。
それを読んで驚く保は、周囲に知られぬようにメモを伏せ、「お前、早く仕事見つけな」と稔に言って、話を逸(そ)らすのだ。
「そのガキ、お前の目とそっくり。人のこと見下してんじゃねーよ!」
保に放たれた稔の絶叫である。
これは、「近親憎悪」(性格の似通った者たちが憎み合うこと)によって、捩(ねじ)れ切って育てられてきた兄弟の関係構造の歪みが、今や、復元できないほどに常態化している現実が露わにされる典型的シーンだった。
人間は自分の内部になく、自分が憧憬する能力的・人格的価値を特定他者に見出す時、その者との親和性が強化されるが、逆に言えば、人間は自分の内部にあり、自分が嫌悪する能力的・人格的価値を特定他者に見出す時、その者との「近親憎悪」が強化されてしまうのである。
これは、庭付き一戸建ての家を手に入れた若き夫婦の祝宴のシーンの挿入の中に、幼い兄弟への父母の関係構造の歪みとしてシンプルに映像提示されていた。
そこでは、前者の「親和動機」(特定他者との友好的関係を維持したいという欲求)によって、父が保に過度の期待をかけ、稔に何の期待をもかけない父の代わりに、母が稔に過剰な愛情を注ぐシーンが印象的に描き出されていた。
因みに、「死刑制度反対派」の立場で、稔と獄中結婚する星野順子に、いみじくも、葛城清が吐露した言葉がある。
「よく二人に勉強を教えてやった。お兄ちゃんはよくできた子で、俺がいいって言うまで、漢字の書き取りだって、何時間だってずっと続けたよ。…ところが、弟の稔はすぐにさぼる。こっちが目、放したら、すぐに机から離れて、一人でへらへら遊んでやがる。我慢って言葉を、あいつは知らない。同じ兄弟で、同じ屋根の下で育って、こうも違うのかなと、愕然としたよ。俺は、やるべきことはやってきたんだ」
これらの映像提示は、二人の息子たちへの葛城清の期待と失望が、既に、兄弟の幼児期のうちに感情形成されていた経緯を検証するものである。
父兄への稔の剥(む)き出しの敵意・忌避感が、相当に根深い感情であった事実を、これらのエピソードは憚(はばか)ることなく映し出している。
―― ここで、保夫婦の子供の怪我のシークエンスに時系列を戻す。
一切の事情を察知した清が、妻・伸子の頬を思い切り叩いたのは、兄に対する稔の絶叫の直後だった。
「何、やってるんだよ、お前は!稔に甘すぎるんだよ。だから、こういうことになるんじゃねぇか!」
一頻(ひとしき)り、怒鳴り散らした清は、リビングから消える。
常に見栄を張り、見たくない対象からは視線を外す。
だから大抵、恐怖突入を回避する。
そのリビングから近所の出火を目撃し、通報しようとしたら稔が帰宅し、次男を疑いながらも、最後は見て見ぬ振りで、自己防衛に走る清。
自分の権威と影響力を誇示する男の、その因果な性分に隠し込まれている人間的脆弱さ ―― これが、的確な描写によって集中的に表現されていた。
詰まる所、「他人事とは言えない」というレビューが多かったことでも分るが、「葛城家」という、未だ、その社会的な適応度において致命的逸脱に振れず、よくある普通のサイズの家族の範疇のように仮構されながらも、この家族が文字通り完全崩壊に流れていくには、もっと質の異なる別のステップが描かれる必要があるだろう。
ここでは、この問題意識をもって批評したい。
以上、このシークエンスは、「葛城家」が抱え込んだ歪んだ関係構造の本質を、自分に都合が悪いことは絶対に認めない葛城清の、一筋縄でいかない喰えなさのうちに照射されたと言っていい。
それ故にこそと言うべきか、このシークエンスは、これで終焉しない。
まだ、やり切れない続きがあるのだ。
もっと質の異なる、別のステップが伏線化されていくからである。
―― エピソードを続ける。
「ごめんね、保…ごめんね、保」
今や、救急車を待侘(まちわ)びるだけの、保の妻が入り込む余地のないこの異様な空気の渦中で、一人だけ引っ叩かれた母・伸子の気弱な声だけが捨てられていた。
この伸子の言葉が内包する意味は、酷薄さに満ちている。
父から「一国一城の主」になる期待を一身に背負わされ、身の丈を超えたプレッシャーをかけられ続け、「我慢って言葉を、あいつは知らない」と見下された弟から、「人のこと見下してんじゃねーよ!」と叫ばれる歪(いびつ)な関係構造の中で、葛城家での「近親憎悪」の所産としての「ディスコミュニケーション」(対人コミュニケーションの機能不全)のしわ寄せが、家族というミニ共同体の幻想を一人で守ろうと努める保にのみ、一方的に及んでしまう理不尽さ ―― これは尋常ではなかった。
しかし、保の努力は、「家族崩壊」を必至とする現象の弥縫策(びほうさく)でしかなかった。
尊大な態度を常態化する葛城清の暴力に耐えるだけの母・伸子が持ち得る、稔と家出とするいう選択肢すらも失い、リストラされた事情も口に出せない保にとって、残された方略は限定的だったのだ。
コミュニケーションの苦手な保が営業の仕事を続けるのは、所詮、無理だったのだろう。
皆が皆、相手の心情に届くに足る、有効なコミュニケーションを密にする能力の不備が、もう、復元不能な辺りにまで漂動(ひょうどう)していた。
家族の漂動の中枢に、「ディスコミュニケーション」の発動点になっている葛城清が居座り、男の自己基準の家族像のうちに、腕力を持って、何もかも収斂させずにはいられなかったからである。