壊れゆく日々に、人は何ができるか

イメージ 1

1  神経が悲鳴を上げている。
 
 
 
今日という一日が、私の人生の全てである。  
 
昨日もそうだった。
 
明日については、もう、私の予約はない。
 
今日と明日の間には、およそ、一年間にも及ぶような時間の隔たりがある。
 
だから、どうでもいいのだ。
 
今日というこの日の、少しでも落ち着ける均衡の獲得に、私は思いきり蓄えた熱量の全てを蕩尽する。
 

私の劣化した細胞が手に入れたグリコーゲンの一切を使い果たさねば、5分後に襲いかかってくるだろう不快なる異界の氾濫に、私の〈生〉は拮抗することすらできないだろう。 

 
人智の及ばぬ負の過剰の膨張に、私は果敢に挑めない。  
 
膨張するものが、いつか噴き上げても、そんな事態にもう為す術がないのだ。
 
人生はなるようにしかならない。
 
そんな言葉を毎日ブツブツ吐きながら、私は今日という一日のみを生きる。
 
今のみを生きる。
 
それ以外は生きない。
 
今のみを苦しむ。
 
5分前の苦しみは苦しまない。
 
5分後の苦しみも苦しまない。
 
襲いかかっている、今、この時を苦しむのだ。
 
今まさに、絶対実存と呼ぶべき世界で呼吸を繋ぐ外はないのである。
 
―― これは、「連作小説(3) 死の谷の畔にて」の中の一文である。
 
あれから、8年間余経った。
 
脊柱(せきちゅう)に途轍もなく大きな力が加わって脊椎(せきつい)が壊れ、脊髄が損傷する。
 
体を動かすために重要な中枢神経である脊髄が重篤な損傷を受ければ、神経が途切れ、完治不能・再生不能であり、リハビリだけが唯一の治療法だが、それも、受傷後の急性期に機能回復の余地を残すのみ。
 
脊髄損傷は人間の自己治癒能力をも破壊するのだ。
 
損傷が脳に近いので、脳からの信号が遮断され、間断なく「麻痺」・「痺れ」が身体を嘗め尽くす。
 
神経の損傷によって神経機能が停止し、痺(しび)れて感覚を喪う「麻痺」。
 
神経の損傷によって神経機能が停止し、知覚異常による感覚である「痺れ」。
 
かくて、私に被せられた「後遺障害等級」は、常に介護を要する「第1級1号」の永久障害であり、介護認定4(上から二番目で重度の要介護者)と認定されるに至る。
 
永久障害でありながら、何とか、「今日という一日」を越えていくために、伝わり歩きを常態化する。
 
その結果、待っていたのは6度に及ぶ転倒事故。
 
転倒する時は、支える力を失って、いつも左側に、そのままの姿勢で倒れてしまう。
 
左脚が機能不全であるからだ。
 
そのままの姿勢で倒れてしまうのは、同様に機能不全の左腕を、介護用アームホルダーで巻き付けているからである。
 
これは私が罹患する疾病が、近年、国家試験でも頻繁に出題されている、「ブラウン・セカール症候群」という厄介な脊髄損傷が原因である。
 
画像でも分るように、脊髄のある部位の片側が受障すると、障害部位以下において、運動麻痺・感覚麻痺などの症状が起こる疾病であり、「麻痺」・「痺れ」・「疼痛」(中枢神経の損傷によって起こる痛み)は完治することがない。
 
だから、この疾病を起因とする転倒事故は、殆ど宿命的なものだった。
 
たちの悪いのは、転倒の度に命が削られていくこと。
 
年を重ねるごとに、身体能力の劣化が亢進するからである。
 
4度目の転倒では肋骨に皹(ひび)が入り、呼吸機能が一時(いっとき)低下し、暫(しばら)く苦痛に歪んでいた。
 
復元するや否や、清瀬の自宅マンションの廊下歩きを繋ぐものの、5度目で腰を打ち付け、大声で人を呼び、助けを求めた。
 
一切は、随伴症状として酷(ひど)い痺れを抱えながらも、機能が残る右脚のみが頼りとなる。
 
しかし、打ち付けた腰が日常性を半壊させ、何とか、「今日という一日」を繋いでいく。
 
それでも無理だった。
 
私には、一筋縄ではいかない「痺れ」という天敵がいたからだ。
 
「痺れ」の怖さは、機能が残る右脚の踏み出す一歩のパワーを、唐突に奪ってしまう扱いにくさにこそ潜在する。
 
正真正銘の「ブラウン・セカール症候群」の為せる業(わざ)である。
 
「痺れは神経の悲鳴」
 
ある医師の言葉である。
 
その時、私は本物の悲鳴を上げた。
 
6度目の転倒の時である。
 
つい先日のことだ。
 
完敗だった。
 
右脚の踏み出す一歩のパワーが、唐突に奪われてしまったのである。
 
油断もあった。
 
朝の自宅マンションの廊下歩きがほぼ終了し、あとは目の前の自室の扉を、いつものように、入念な身体移動で抉(こ)じ開ける作業のみ。
 
そう思った途端、変化が起こった。
 
体験したことがないような痛みが、私の顔面を襲ったのだ。
 
一瞬、何が起こったのか分らなかった。
 
私の中で、神経の悲鳴が炸裂したことは分った。
 
最も怖れていた痺れの発現によって、私の右脚の筋力が奪われ、体重を支えることができなくなり、膝を崩し、そのまま、左側に転倒してしまったのである。
 
途轍もない激痛だった。
 
腰を打ち付けた5度目の転倒時のように、大声で人を呼び、助けを求めた。
 
私の配偶者が、慌ててやって来た。
 
私の配偶者によれば、もの凄い機械音が聞こえたと言う。
 
バリアフリーになっていないが、補修による水はけ良好のマンションの共用廊下に顔面が打ち付けられた音である。
 
左の顔面が鮮血の赤に染まり、配偶者に抱えられ、何とか立ち上がることができた。
 
自室に眠っている車椅子を運んで来てもらい、直ちに救急車に連絡した。
 
まもなく、救急車がやって来て、救急外来捜しが始まったが、生憎(あいにく)、この日が日曜日だったので、私が住む清瀬市のみならず、近隣の病院にも整形外科の救急外来がなく、結局、受け入れ先が決まるまで30分間位要しただろうか。
 
練馬光が丘病院・ER(救急室)。
 
ここしかなかった。
 
救急車でも40分間を要する病院である。
 
救急隊員の人は、さすがにプロらしく、手配し・搬送してくれたことを心から感謝している。
 
到着するや、整形外科の当番医によって、身体の断面を撮影するCT検査が待っていた。
 
その結果、骨折が確認できなかったので安堵するものの、私の顔面は歪んだように腫(は)れ上がり、左眼が開けられず、真っ赤に充血し、涙が止まらなかった。
 
介護タクシーを呼んで帰宅した時は、夕方になっていた。
 
2017年9月24日のことである。
 
いよいよ顔面全体の激痛が増し、口も大きく開けられないので、食事を取ることも儘(まま)ならい。
 
それでなくても、「要介護」の状態にある私の身体は、逃げ場のない切り立った崖の淵に追い詰められ、壊れゆく日々と折り合いがつけられず、「今日という一日」を越えていくに足るだけの呼吸を繋いでいく。
 
転倒後の私の心は、何とか、伝わり歩きで室内歩行を繋いでいくが、未来に架橋できない冥闇(めいあん)の黒にすっかり食い千切られていた。
 
光が丘病院の整形外科医から連絡があったのは、痛みと顔面の痺れが増強し、「これで骨折していないのか」と嘆息している時だった。
 
「骨折が見つかったので、もう一度、病院に来てくれませんか」
 
整形の外科部長らしき医師から督促されたのである。
 
翌週の木曜日のことだった。
 
「やっぱり…」
 
そう思った。
 
衝撃が走るが、手術だけは拒絶する意思を固めていた。
 
手術で入院したら、間違いなく、私の生活は根柢から自壊する。
 
もう歩けなくなり、「寝たきり」の状態を余儀なくされるだろう。
 
私の疾病が厄介なのは、電動ベッドと私仕様の特殊な椅子との、僅か3メートルの距離の往復を、日々、十数回も繰り返さないと、運動機能の顕著な劣化が出来するのが眼に見えているからである。
 
「ファンクショナルトレーニング」(運動能力を引き出す基礎訓練)と言ったら大袈裟だが、この訓練の時間を奪われたら、私は確実に終わりになる。
 
この恐怖感が、私の内側を一貫して支配し続けているのだ。
 
だから、病院行きを躊躇(ためら)っていたが、どうしても避けられないので、翌週の水曜日に、重い気分の中で外来受診するに至る。
 
今度は、40分以上も要して、寝台タクシーで光が丘病院に向かった。
 
 
外科部長らしき医師の懇切丁寧な迎えと、丁寧な説明があり、顔の骨折が専門の形成外科に回され、放射線科で確認された、先日のCT画像の詳細な説明を受けることになる。
 
配偶者と共に見たCT画像は、素人目でも分るほど、左眼周辺が完全に陥没し、正視に耐えないような状態だった。
 
「何で、こんな分りやすい画像を見落としたのか」
 
喉まで出かかった言葉を呑み込むことができたのは、私たちを案内してくれた整形の医師と、形成の若い医師の説明が、どこまでも患者本位の応対だったからである。
 
 
今、振り返っても、本当にいい医師だった。
 
「左の頬のCTを撮る必要があるのですが…」と医師。
「どうしてですか?」と私。
 
 
形成の医師の説明では、2週間も経って腫(は)れが引かないのは、左の頬も骨折の可能性があるということだった。
 
「骨折だったら、どうなるんですか?」と配偶者。
「手術ですか?」
 
間髪を容れず、私も問いを発する。
 
頷く若い医師。
 
「どこで手術するんですか?」と配偶者。
 
「ここではできないので、板橋の病院でやることになります」と医師。
 
 
板橋という名を耳にし、配偶者と私は失意の念を深めるだけだった。
 
「そこまで行けない」
 
これが、言辞に結ばれることがない、二人の共通認識だった
 
「手術を受けないとどうなるんですか?」と配偶者。
「骨折は必ず治りますけど、顔面の痺れが残ります」と医師。
「一生ですか?」と配偶者。
 
手術を拒絶する意思を固めていた私は、ここで、はっきり言い切った。
 
 
「だったら、手術をしません。歩けなくなる方が嫌なんです。どうせ、私の首から下は20年間、痺れっ放しだから、ここで顔面の痺れが残っても、同じことなんです」
 
このくすんだような空気の中に、一瞬、沈黙が生まれた。
 
その沈黙を、若くて、誠実味溢れる形成外科の医師は、先の言葉をリピートする。
 
「申し訳ありませんが、左の頬のCTを放射線科で撮って来てくれませんか」
「分りました」と私。
 
車椅子に乗る私を配偶者が誘導し、直ちに放射線科に出向き、CT画像を撮って来た。
 
どのような結果になっても、覚悟を決めていた私には緊張感が殆どなかった。
 
 
「骨折していません」
 
CT画像を丹念に確認した直後の形成の医師の言葉には安堵に満ち、悦びの感情が表情に広がっていた。
 
「良かったね」
 
目立つように腫れた私の顔を見ながら、配偶者は、思わず言い添える。
 
その眼には、薄っすらと熱いものが滲んでいた。
 
看護師さんも悦んでくれた。
 
「顔面の痺れは、1年ほど続くかも分りませんが、必ず治ります」
 
偶然の出会いかも知れないが、形成の診察室は、終始、患者の自己決定権を保障する「インフォームド・コンセント」が守られていて、先の親切な整形の医師と共に、心から素晴らしいスタッフであると感嘆した。
 
「こういう医師もいるんだ…」
 
今まで散々、有効なコミュニケーションがとれない医師を多く見てきたので、この出会いは新鮮だった。
 
改めて、医師の存在価値を自己基準でジャッジする態度の愚を知った次第である。
 
「眼窩(がんか)周辺骨折」
 
これが、正式な診断名である。
 
何より、失明の危機を免れた安堵感が、私の内面を存分に潤していた。
 
―― あれから、2ヶ月間が経過した。
 
気がついたら、季節は、落葉が視界に収まる晩秋に遷移していた。
 
私の顔の腫れも引き、痛みも全く気にならない。
 
顔の痺れも我慢できる状態にまでなっている。
 
それでも、「悪魔」が私の右脚に取り憑いている。
 
これだけは、全く変わらない。
 
もう、マンションの共用廊下を自力で歩けない。
 
「眼窩(がんか)周辺骨折」の恐怖が、そうさせるのか。
 
それとも、私の右脚の痺れは永久に続くのか。
 
今や、室内歩きも儘ならない。
 
伝わり歩きを常態化する日々の中で、20分位要して、毎朝、尋常ではない恐怖を抱え、狭い室内を這っている。
 
地虫のように這っている。
 
それ以外の選択肢がないのだ。
 
終わりの見えない、私の総体を覆う凄烈な痺れ。
 
もう、この猛烈な痺れに折り合いを付けることは不可能なのか。
 
「絶望」という、宗教性を喪った翩々(へんぺん)たる観念を、機能不全の痩身な病躯(びょうく)で騒いでいる神経系統に埋め込むのも烏滸(おこ)がましい。
 
それでも、「悪魔」を追い払えない。
 
自発呼吸が終焉しても追い払えない。
 
神経が悲鳴を上げている。
 
「痺れは神経の悲鳴」だったのだ。
 
そう実感する、今日この頃である。
 
 
  
心の風景  「壊れゆく日々に、人は何ができるか」 よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/11/blog-post_25.html