戦場にかける橋('57) デヴィッド・リーン  <予測困難な事態に囲繞される人間社会の現実の怖さ>

 拠って立つ価値観や置かれた立場が異なり、科学技術の習熟度や、それについての把握が異なる「異文化」の中枢に、「クワイ河マーチ」のメロディに乗って軽やかに行進しながら、自分の意志とは無縁に放り込まれた英軍将校とその一隊が、人生に対する基本的価値観や置かれた立場の相違によって、相互理解困難な葛藤や対立の中で、そこだけはほぼ万国共通の「男の美徳」、即ち、「信念を変えない意志の強靭さ」や「類希な勇敢さ」を身体表現することで、葛藤や対立の原因子の表層を除去し、「英雄の立ち上げ」を可能にした。

 この「英雄の立ち上げ」の推進力によって、課題の解決困難な「大事業」を、科学技術の習熟度の粋を駆使して遂に成し遂げ、そこに「立ち上げられた英雄」は、「英雄の完成」の域にまで上り詰めていった。

 しかし、「英雄の完成」は、歴史的時代状況の流れとの間に微妙な落差を生み出していく。

 それは既に、「英雄の立ち上げ」以降の、「英雄」の「信念」の中に包含されていたものである。

 従って、「大事業」の遂行によって成った「英雄の完成」は、同時に、微妙な落差を生み出していた歴史的時代状況の流れの中で、「英雄の崩壊」を必然化させていたと言っていい。

 これは、デヴィッド・リーン監督が5年後に発表する、「アラビアのロレンス」という稀有な大作と殆ど同じ物語構造であると考えられる。

 即ち、本作で「信念を変えない意志強靭さ」や「類希な勇敢さ」を身体表現した英軍将校であるニコルスン大佐は、「アラビアのロレンス」とほぼ同様の人生の振れ方を示したと見ていいだろう。

 ニコルスン大佐は、「アラビアのロレンス」だったのだ。

 ここに、興味深い会話がある。

 それは、ジュネーブ協定違反であるとして、頑として、捕虜将校の労役従事を拒否したが故に、強烈な照射を浴びる重営倉に監禁されながら、生命を賭して耐え抜いたことで解放されるに至ったニコルスン大佐が、「英雄の立ち上げ」を身体表現した結果、科学技術の粋を誇る英軍部隊がイニシアティブを取って、橋梁建設に向かう態度を示した際の、ヒューズ大佐らとの将校同士の会話である。

 「こっちの能力と、英軍の実力を彼らに見せよう」とニコルスン大佐。
 「では、あなたは本気で橋を作ると?」
 「今頃、分ったのか。兵隊には、目標が必要だ。それがなかったら、我々が作り出す。目標ができたからには、真剣にやれ。兵隊には、自分の仕事に誇りを持たせることが肝心だ」

 これが、ニコルスン大佐の確信的返答だった。

 彼は、「英軍の実力を彼らに見せる」ことと、「兵隊には、自分の仕事に誇りを持たせることが肝心だ」という理由で、明らかに「利敵行為」である橋梁建設を引き受けたのである。


 これに関しては、軍医であるクリプトンとの会話の中でも拾われていた。

 「敵を利する行為では?」

 橋梁建設を引き受けたことに驚きを隠せない、クリプトン軍医の素朴な疑問だった。

 「後世に、この橋を渡る人々は思うだろう。それを作った英軍は、囚われの身でも奴隷に身を落とさなかったことを」

 これもまた、ニコルスン大佐の確信的返答だった。

 彼の中には、「利敵行為」よりも、「囚われの身でも奴隷に身を落とさなかったこと」の方がプライオリティが高いのだ。

 そして、ニコルスン大佐が実質的にイニシアティブを取る会議が開かれ、そこで彼は、日本人のノルマを増やし、英兵と同じ2ヤードにして競争させるという提案をした結果、ビルマ・タイ国境近くに位置する、日本軍捕虜収容所を仕切る斎藤大佐の承諾を得るに至る。

 「橋の工事は間に合うか?」と斎藤大佐。
 「無理だがやるしかない」とニコルスン大佐。

 その会議での、領袖同士の短い会話である。

 以降、「遺書」まで認(したた)め、腹を括った斎藤大佐から、言語表現が殆ど消えていく。

 この辺りまでは、ニコルスン大佐の行動傾向には、彼の信念に裏付けられた確固たる意志が垣間見えていた。


(人生論的映画評論/戦場にかける橋('57)  デヴィッド・リーン  <予測困難な事態に囲繞される人間社会の現実の怖さ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/57.html