旅の重さ('72) 斎藤耕一 <「定着からの戦略的離脱」としての「青春の一人旅」>

 1  「定着からの戦略的離脱」としての「青春の一人旅」



 「青春の一人旅」には、様々な「形」があるが、少なくとも、「自己を内視する知的過程」に関わる旅の本質を、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」であると、私は把握している。

 そして、「青春の一人旅」の目的は、「異文化との交叉」によって自己の相対化し切って、「自己の存在確認と再構築」を果たすことである

 しかし、「青春の一人旅」を発動させる契機もまた様々であるだろう。

 「自己の肥大化」に振れていかざるを得ない、「恐怖突入ゼロ」のポジティブな旅も多いに違いない。

 本作のヒロインのケースは、当然、「恐怖突入ゼロ」のポジティブな旅ではない。

 意外に楽天的なモノローグで物語を開いて見せたが、その内実は、現在の自己のアイデンティティを十全に満たせない思春期の自我の不具合感を内包するものだった。

 〈生〉の「不安」と「恐怖」をひしと感受する文学少女の、「現実逃避」が契機になっていたということだ。

 実際、この文学少女のように、そのような発動契機によって、「青春の一人旅」が開かれることが多いだろう。

 それ故、「青春の一人旅」は重くなる。

 それは、「青春」それ自身の重さであり、「移動を繋ぐ非日常」の時間の重さであり、そして、その時間を背負う自我の液状化を喰い止めるために集合する、全ての自給熱量の重さである。

 この「旅の重さ」に耐え切ったとき、未知のゾーンをほんの少し突き抜けて、何かが開かれ、更新されていく。

ここで開かれ、更新されていく何かを手に入れるために、青春は、その青春の根元を強化する過程を繋いでいくのだ。

 本作のヒロインの少女は、母への手紙で記していた。

 「ママ、私が書いた詩、覚えてる?“ある日、私は自分の骸骨と向かい合った。骸骨は終始黙ったまま、洞穴のような暗い眼の奥から、絶えず私に微笑みかけた。白い骨の関節が軋(きし)んで、私の手を撫でた”私は、自分自身を悩ますこの幻影から逃れるためにも、旅に出たかったの。清々しい空気。見知らぬ土地。旅にさえ出てしまえば、一切が解決するような気がして」

 このような文学的な説明以外、ヒロインの少女の「青春の一人旅」の背景説明を描かないが、その心理的風景には、男出入りの多い母との関係のみならず、学校生活を中心にした人間関係の齟齬(そご)の問題が関与しているだろうと想像できる。

 少女は、「定着からの戦略的離脱」を必要とせざるを得ないほどに追い詰められていたのだ。

 彼女にとって、既に周囲の環境との折り合いのつかない「日常性」に搦(から)め捕られていて、それが加速的に劣化していく現在の〈生〉の有りようを凝視したとき、そこに生まれた厖大な「不安」と「恐怖」が彼女を根柢から駆り立て、「お遍路の旅」という名目のもとに、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」を開くに至ったのである。



(人生論的映画評論/旅の重さ('72) 斎藤耕一  <「定着からの戦略的離脱」としての「青春の一人旅」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/72.html