仕立て屋の恋('89)  パトリス・ルコント <「パラダイスへの旅立ち」への大いなる危うさを内包する物語の、その完璧な終焉>

 1  電光一閃によって晒された「想像の快楽」という名のゲーム



 この映画は、自己完結的なゲームを愉悦する男の幻想の世界に、そのゲームのヒロインである女の身体が唐突に侵入することで、「非日常の日常化」を作り出していた寡黙な男の、そこだけは充分に特化した時間がゲーム‐オーバーしたばかりか、女の身体が誘(いざな)う危ういリアリティの中に、覚悟を括って、ゲームとの境界を壊した男の身体が、歓喜のうちに丸ごとインボルブされ、恰も、「予約された悲劇」をなぞるように振れていく男の自己完結的な物語である。

 ここで言うゲームとは、「想像の快楽」という名のゲームである。

 それは「プロセスの快楽」という性格を持ち、限りなく「達成の快楽」を視野に入れて愉悦するゲームである。

 しかし、男の「想像の快楽」というゲームの本質は、ゲームを開いた当初、「男女の睦みの至福」という、存分な「達成の快楽」を視野に入れることのない自己完結的なゲームであった。

 それ故に、この物語は「予約された悲劇」に雪崩れ込む以外になかったのである。

 そんな男の、境界離脱のリスクを高めるに至った、愉悦のゲームラインを把握できる会話がある。

 因みに、男のゲームの内実は、男のアパート向かいの部屋に転居して来た件の女の生活を、毎晩、覗き見すること。

 それだけだった。

 しかし、電気も点けることなく覗き見する男の、自己完結的なゲームの破綻は呆気なかった。

 雷雨の夜の電光一閃によって、男の相貌が晒されたとき、女がそれを視認してしまったのである。

 以下、男と女の初対面の会話。

 男の部屋を、女が訪ねて来たときのシークエンスである。

 「覗きは御免よ」
 「見ているだけだ」
 「悪意があるのかと思ったわ」
 「なぜ、怖がる。怖がられるのは哀しい」
 「見られるのは嬉しいの。あなたは特別よ。優しそうに見えるから」
 「私のことを何も知らないのに」

 そこに、「間」が生じた。

 「ずっと前から?」
 「毎晩、見ていた」
 「私が寝た後は?」
 「何も。ただ、待っていた」
 「何を?」
 「さあね。私は少し眠れば充分なんだ」
 「私の全てを知り尽くしているのね」
 「全てではない。少しだけなら知っている・・・出て行ってくれ」

 その直後、手を握って来た女に、「出ていけ!」と、男は言い放った。

 無言で振り返り、男の部屋を出て行く女。

 
(人生論的映画評論/仕立て屋の恋('89)  パトリス・ルコント <「パラダイスへの旅立ち」への大いなる危うさを内包する物語の、その完璧な終焉>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/89.html