野性の少年('69)  フランソワ・トリュフォー <「『愛』による『教育』」の成就 ――「父性」と「母性」の均衡感のある教育的提示>

 1  「アヴェロンの野生児」の発見



 1797年に、南フランスの森深くで、猟師たちによって発見され、生け捕りにされた裸の少年がいた。

 所謂、「アヴェロンの野生児」である。

 程なく、パリの国立聾唖学院に預けられ、獣と戦った痕を示す15か所の傷を確認されたこの少年は、人々から「化け物」扱いされるばかりだった。

 パリ市民の好奇の眼に晒され、この少年に対する隔離の必要を感じた、一人の聾唖教育者がいた。

 後に、政府の保護下で、少年の教育を担当するジャン・イタールである。

 国立聾唖学院の医師でもあった彼が、学院長のピネル教授と、少年の能力について会話した内実に、既に二人の教育者の「少年観」の相違が現れていた。

 「あの子は、ビセートル治療院にいる知恵遅れの子供と変わりない」とピネル教授。
 「入院させる?」とイタール博士。
 「止むを得まい。その方が本人は勿論、ここの子供のためにもなる」
 「ビセートルに送るのはあんまりです。バカではない。不幸にも6,7年、いや8年もの間、森で孤独に生きていただけです」
 「あの子が親に捨てられ、殺されかけたのは異常だからだ。孤立のせいと言うのかね?なぜ、捨てられた?」
 「私生児とか、始末するしかない子供だった」
 「どうするつもりだ?」
 「教育してみたい。新聞で読んだときから考えていました。パリ郊外で家政婦が世話します」

 まもなく、政府から少年の保護権を得たイタール博士による、「アヴェロンの野生児」に対する教育が開かれたのである。

 なお、ここで言う家政婦とはゲラン夫人のことで、彼女もまた政府から慰労金を受けるに至るが、彼女の存在価値の大きさは慰労金の多寡とは無縁であった。


 2  ヴィクトールの誕生、その教育へのアポリア



 以下、イタール博士の教育の内実を、彼のレポートを通してフォローしていく。

 「何でも匂いを嗅ぐが、くしゃみが出ぬように、鼻腔を塞ぐ訓練する。如何なる精神的な影響にも無反応。襲唖学校で虐待されても、泣いたことはない」

 これは、少年の教育を始めたイタール博士のレポート。

 イタール博士は二足歩行の訓練を開くが、靴を無理に履かせての訓練の成果は、少年の手を離すと転倒する状況を作っただけだった。

 「気温に敏感になった少年に、衣服の便利さを教えようと、部屋に一人残し、窓を開け、寒さに晒し、自分から着るように仕向けた」(イタール博士のレポート)

 「野原に出るのが彼の最大の喜び。近隣のラメリー家で、牛乳をもらうのが日課になった。出掛けるのと分るように、私は帽子とステッキを持ち、丘や森を見て、彼が眼を輝かせる様は見ものだ。馬車の窓は眺めるのは狭い。左右の窓を行ったり来たりし、夢中で眺めた。少年らしい好奇心で野原を歩き回る。特有の奇妙な歩き方で、靴も履かずに。私と同じ歩調ではもどかしいのか、駆け足になる」(イタール博士のレポート)

 イタール博士の教育に、ラメリー家が登場して、甲斐甲斐しく世話をする絵柄が多くなっていく。

 「食べ物への興味を絡めて、コップのゲームを試みた」(イタール博士のレポート)

 成功報酬に胡桃(くるみ)を与えるゲームは、刺激による条件づけの行動療法である。

 また、この時点で、少年は完全に二足歩行に成功する。

 更に、手押し車に乗る遊びをラメリー家の子に教わり、それをラメリー氏に自ら求める少年の行動が眼を引く。

 少年の表情から笑みが零れたからである。

 「外出の回数を減らし、食事や眠る時間も削り、教育により時間を割いた。コップのゲームも複雑にした。今は鉛の兵隊で行っている。隠した物を特定する訓練である。人の言葉に反応するようになる。O(オー)の言葉に敏感に反応したことで、名をヴィクトールとした」(イタール博士のレポート)

 「アヴェロンの野生児」は、ヴィクトールという固有名詞によって呼称されるようになったのである。

 
(人生論的映画評論/野性の少年('69)  フランソワ・トリュフォー <「『愛』による『教育』」の成就 ――「父性」と「母性」の均衡感のある教育的提示>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/05/69.html