太陽に灼かれて('94)  ニキータ・ミハルコフ <「風景の変容」 ―― 3部構成によって成る特徴的な映像構成の劇的効果>

 1  「朱に染まった波の間から、偽りの太陽が昇り始める」



 「“最近、モスクワ近郊で奇妙な現象がしきり(しばしば)と見られると、通告(報告)されている。火の球が出来(出現)したかと思うと、消え去る。作物は被害を受け、農者(農民)たちの健康を脅かし、深刻な影響を与えている。この火の球の移動する方向と速度は、それぞれの地域の地形と建造体(建造物)による。この現象は、最近の甚だしい環境の変化による結論(結果)と考えられている”」

 これは、新聞を読む男の言葉。

 男は、ロシア語が堪能ではない執事。

 その男が読む、拙い言葉の誤りを訂正するのは(丸括弧内の言葉)、男の雇い主であるドミトリ(ミーチャ)。

 彼は一仕事を終えた後、拳銃を手に持ち、ロシアンルーレットの恐怖の世界に侵入した。

 しかし、銃丸は発射されなかった。

 リボルバー式拳銃の6発の装弾が抜き取られていたからだ。

 映像は一転して、冬の季節に、コトフ大佐の自宅テラスでの小楽隊の演奏を映し出した。

 季節を感じさせないタンゴの歌声が、自然の中で軽やかに踊っている。

 「朱に染まった波の間から、偽りの太陽が昇り始める。その光の中で、お前は言う。もう愛はないと。でも私は絶望しない。痛みも悲しみもない。朝の光の中で、お前が言う。明るく言う。“旅に出ましょう”と。それでいいのだ。お前と私・・・二人が悪かったんだ・・・」

 その小楽隊の前のテラスで、一組の男女がダンスを興じている。

 コトフと、年の離れた若いマルシャの夫婦である。

 その傍には、男女の愛児が楽しそうにベンチに座っている。

 ナージャである。

 ここで、本作のメイン・タイトルが大きく映し出された。

 「太陽に灼かれて」のイメージが、既に、このファーストシーンで提示されているのは言うまでもないだろう。

 「偽りの太陽」とは、新聞記事の中の「火の玉」と同義であり、「革命」、「スターリン」、「全体主義国家」を象徴する負のイメージであるに違いない。

 このイメージの持つ恐怖は、ラストシーンにおいてその全貌を現す、気球に引っ張られて昇ってくるスターリンの肖像に象徴される圧倒的支配力の内に集約されるだろう。

 本作は、「スターリン気球記念日」という「特別な一日」を描いた映画なのである。。



  2  「人間ドラマ」という方法論の有効性 ―― 真っ向勝負の「社会派映画」の困難さ


 「キリング・フィールド」(ローランド・ジョフィー監督/画像))や、「さらば、わが愛 覇王別姫」(チェン・カイコー監督)のケースがそうだったように、歴史上の大きなテーマを扱う場合、真っ向勝負の「社会派映画」として映像を構築するのが困難である場合があまりに多い。

 なぜなら、「社会派映画」として扱うには、「時代」が分娩した〈状況〉が、人間の心の奥深くまで侵蝕する恐怖の広がりを延長させてしまっているのである。

 人間の心の奥深くまで侵蝕する広がりを延長させた恐怖を、限りなく相対化する知的営為の作業は可能でも、その全貌を映像化するのが困難であるのは、内包する問題があまりに複雑過ぎているばかりか、「人間の現実」が複層化し、重なり合っているため、そこに多くの人間学的テーマを継続的に抱え込んでしまっているからである。

 恐怖の広がりの延長が「現代的課題」を引き摺ったまま、容易な軟着点を手に入れられないのだ。

 従って本作を、その類の「社会派映画」として決め付けた上で、そこに不足する問題点を、狭隘なイデオロギーを梃子に指弾するような批評は多分自壊するだろう。

 恐らく作り手は、その類の「社会派映画」の困難さを自覚した上で、本作を「人間ドラマ」として描いているのだ。

 「人間ドラマ」という方法論の有効性を把握できない愚かさ ―― それが、狭隘なイデオロギーを梃子に指弾する批評に多々見られるのである。

 かの御仁は、作り手が映像に仮託した主旨やライトモチーフを、客観的に把握した上で批評することなく、「こうあるべき」という自分のドグマチックなイメージを勝手に決め付けた挙句、そのラインに沿って、「この映画には・・・が決定的に不足している」などと畳み掛けていくから厄介なのだ。

 それはどこまでも、自分の「こうあるべき」というドグマチックなイメージの枠内でしか批評できない狭隘さが、しばしば、決定的瑕疵になることを認知し得ない厚顔さと共存するから始末に負えないのである。

 多くの場合、批評のメンタリティに過分な程のモラリズムが挿入されているので、イデオロギーは表現作品を批評する視座を決定的に曇らせてしまうのだ。


(人生論的映画評論/太陽に灼かれて('94)  ニキータ・ミハルコフ <「風景の変容」 ―― 3部構成によって成る特徴的な映像構成の劇的効果>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/94.html