誰がため('08)  オーレ・クリスチャン・マッセン<複雑な状況下に捕捉された人間の、複雑に絡み合った心理の様態を映し出した秀作>

 1  「約束された墓場」である「約束された悲劇」の物語



 本作は、死を極点にする「非日常」の鋭角的な時間を日常化した男たちの、「約束された悲劇」を描いたものである。

 「約束された悲劇」とは、「過激なテロリスト」の人生が、そこにしか流れ着かないような「約束された墓場」である。

 映像が映し出したものの多くは、「過激なテロリスト」によるテロルの連射であり、まるでそれは、退廃的な文化を特定的に切り取った、フィルムノアールのダークサイドの臭気に満ちていた。

 ダークサイドの臭気に満ちていた立憲君主制国家の名は、第二次世界大戦下のデンマーク

 ナチスドイツから「保護占領」という形で侵略された立憲君主制国家において、欧州王家として長く続いた王室は守られ、国内政治も継続性を保証されていた。

 既に、1934年6月末の「長いナイフの夜」で突撃隊を粛清し、党内権力を掌握したばかりか、国家権力を手中に収めたアドルフ・ヒトラーは、デンマーク王国を同じアーリア系のゲルマン民族の国家と主観的に認知していたため、クリスチャン10世をコペンハーゲンに留まることを許可すると同時に、デンマーク国民の象徴として、その地位を保証したのである。

 それが、「保護占領」の内実だった。

 そんな中途半端な国家で起こった反ナチ・レジスタンス運動が、熱きナショナリズムの推進力を自給できなかったのは、このような歴史の制約に起因するものだ。

そんな中で、細々と立ち上げたレジスタンス運動に挺身する、二人の男。

本作の主人公である、フラメンとシトロンという、コードネーム(暗号名)を持つ二人の青年である。

 「全身コミュニスト」でない彼らは、ピュアなナショナリスト、或いはパトリオットとして、この困難な時代の心臓部に自己投入していくのだ。

 彼らは、「ホルガ・ダンスケ」という大規模な地下組織の幹部であるヴィンターの暗殺指令によって、主に裏切り者のデンマーク人を抹殺する使命を帯び、それを遂行する。

 23歳の若いフラメンは大義に燃えて、淡々と使命を遂行していくが、30歳を過ぎたシトロンは妻子持ちであるが故にか、簡単に人を殺す行為を回避している。

 だから、シトロンはフラメンの運搬係という任務に甘んじていた。

 元より、地下で組織されたレジスタンス運動の本質は、その日常性の一切が、「非日常化」されているという極限状況を常態化しているので、言わば、彼らは「非日常の日常化」の極限状況下で、厄介なミッションを遂行していくのだ。

それ故にと言うべきか、同国人への暗殺という行為に対して感覚鈍磨していく様相を呈するのは、殆ど時間の問題だった。

 感覚鈍磨させない限り、自我の拠って立つ大義が守れないのだ。

 そんな極限状況下で若い自我を支えるのは、「恐怖支配力」の有無であると言っていい。

 「恐怖支配力」というメンタリティは、「過激なテロリスト」たちの継続力を保証し、感覚鈍磨によって希釈化された「合目的的テロル」への全人格的投入が、そこに生き残された一縷(いちる)の知性による「疑念」を払拭していくのだ。

 この辺りの心理については、後述する。

 本作の主人公である二人の青年が、感覚鈍磨によって希釈化された「合目的的テロル」への全人格的投入に相応しき人物造形されていたとは、とうてい思えないからである。

(人生論的映画評論/誰がため('08)  オーレ・クリスチャン・マッセン<複雑な状況下に捕捉された人間の、複雑に絡み合った心理の様態を映し出した秀作>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/06/08.html