風景への旅

 「日本一周無銭旅行」という、今から思えば赤面するような一人旅を、私は19歳の時に経験した。

 約50日間、一般旅館や、ユースホステルのような青少年旅行者用のチープな簡易宿泊施設に泊まることなく、ヒッチハイカーというのでもなく、一貫して鉄道を利用するだけの完璧な一人旅。

 それが、この旅行だった。

 今から思えば信じられないことだが、宿泊施設の過半が寺院の本堂を借り、そこで寝袋に入って朝を迎えるだけの旅。

 他にも、旅で知り合った人たちの心優しき配慮によって3分の1くらいは、民家に泊めて頂いた。

 あとは、テントで河川敷に野宿したり、駅の構内で無造作にごろ寝をしたりという、自由な一人旅だ。

 旅の目的は一つ。

 自分の知らない土地に行き、知らない人と交流することなどで、軟弱だった自分の精神を鍛えたかった。

 それだけである。

 この旅によって、私は「未知のゾーン」に馴致する自我の構えが、多少なりとも強化されたように思う。

 だから私は、「旅の重さ」のヒロインのように、「経験が人間を作る」という当り前な人生観を実感的に手に入れたのだろう。

 それ以後、私の人生は、様々な意味で、「旅」の連続だったと言っていい。

 19歳の時の、私にとって決して小さくない一つの旅が、脆弱な自我のうちに、常に「未知のゾーン」として立ち塞がっている〈大状況〉で、何とか呼吸を繋いでいくに足る分だけの熱量を自給してくれたのだろう。

 そんな私が、「風景美」というものに覚醒したかの如き衝撃を受け、まるで内側深くで就眠していたような、「未知のゾーン」の世界に大きく振れていったのは、30代に入って志賀高原を旅したことが大きな契機になった。

 それまで全く見向きもしなかった、「日本の四季」の彩色豊かな自然を目の当たりにして、私の中で、何かが決定的に変わっていくのを感受せずにいられなかったのである。

 この国の黄紅葉の目眩(めくる)めく自然の、造形美の小宇宙の自己運動の世界に、私は絶句する思いだった。

 「こんな美しい自然が日本にあるのか」

 正直、そう思った。

 それまで私が見てきたものの「風景」の中には、その土地で暮らす人々の信じ難い優しさを拾うことができても、そこには、「自然美」という概念が入り込む余地がなかったのだ。

 これは、〈大状況〉という「未知のゾーン」に搦(から)め捕られていた、青春期特有の複雑極まる関係幻想への呪縛を解く内的過程を相対化すると同時に、自分の無知を再確認させられる経験でもあった。

 私は「風景」という概念を、人間学的文脈でしか捉えてこなかったのである。

 狂ったように「自然美」を求めて、私の山里彷徨や花紀行が開かれたのは、この志賀高原への旅行の経験以降だった。

 しかし残念ながら、日本中を隈なく旅行したはずの私が、残した無数のアルバムの中には、それらの「自然美」を精緻に切り取った写真は殆どない。

 カメラへの関心も、当時まだ本格的に高まっていなかったし、何よりも、四季折々の花の名前すら私は知らなかった。

 だから漸次、植物図鑑が私のバイブルとなっていく。

 このように開かれた「風景への旅」は、西大泉で塾を運営する傍ら、暇を見つけては、それが仮に人工的なものであったとしても、「自然美」との新しい出会いを求めて、私の精神と肉体はフル稼働していったのである。

 以下の写真は、そんな初期の私の「風景への旅」で切り取った断片でしかないが、私にとって、風景紀行の貴重な産物と思っている次第だ。

 こと、写真に関しては過剰であると認知している、極彩色への「狂気」とも言えるような何かが、一貫して「未知のゾーン」である、「風景」に対するスタンスが、私の中枢にずっと根を張っているようだ。

 この俗物性こそ、私の「風景への旅」を支配し続けている厄介な何かであるが、それを相対化し得ない、「狂気」という過剰さとの共存が内側に張り付いていることを認知しつつ、初期の「風景への旅」で切り取った写真を、以下に公開します。


(使用カメラは、主に、コンパクトカメラ。他に、35mmレンズ交換式銀塩一眼レフカメラオリンパスOM4。200mm望遠ズーム。使用フィルムは、富士フイルムリアラACE、リバーサルフィルム、PLフィルター他。また、キヤノンのスキャナーにより、写真から画像を入力/以下の写真は、全て私自身が交通事故を起こす以前の12年以上前のものです )



(思い出の風景 /風景への旅 )より抜粋http://zilgf.blogspot.com/2011/06/blog-post_16.html