1 開放された門扉の向こうへの遥かなるディスタンス
少女が大人たちの止めるのも聞かず、施設の門柱の上に乗った。
寮母が少女の脚を捕捉しようとしたが、身軽な少女にかわされてしまったのだ。
不安げに事態を見詰める施設の子供たち。
「子供たちを中に。イェシンお願い!」
事態に充分対応できないカトリックの児童養護施設の修道女に代って、気丈な寮母が年長の少女に命じて、施設の子供たちを部屋に戻させた。
脚に障害を持つイェシンが、子供たちを誘導する。
そこに、もう一人の大柄な少女が、あっという間に門柱の上に登り、既に登り切って、恐々と立ち竦んでいる少女を捕捉しようとした。
「降りなよ!」
大柄な少女が叫ぶ。
「スッキ、何するの!降りなさい!」
寮母の叫びだ。
大柄な少女の名は、スッキというらしい。
そのスッキも、寮母の命で下に降りた。
立ち竦んでいる少女を捕捉できなかったからでもあった。
「門を開けたわよ。帰りなさい」
一貫して気丈な寮母は、立ち竦む少女にそう言って、門扉を開放し、周りにいた子供たちを強制的に戻らせたのである。
カトリックの施設の二人の修道女をも指示して、〈状況〉を仕切る寮母の人生経験が、このような括り切った振舞いを身体化させているのだろうか。
そう思わせる「女の強さ」が、そこに表現されていた。
誰もいなくなった施設の門柱の上で立ち竦んでいた少女は、恐々と門柱から降りて、それ以外にない行為に流れていく。
押し出されたように門外に出て、とぼとぼと歩いていくが、その脚が止まったところで、このシークエンスが閉じていった。
少女なりに「適応拒否」の意思表示を身体表現することだけが目的化されたような行為が見透かされて、もう、少女は何もできなくなった。
その直後の映像は、夜になって戻って来た少女が残飯を漁っているシーン。
空腹に耐えかねた少女の振舞いは、「適応拒否」の意思表示を身体表現する一連の、その頓挫の流れの中では至極自然なものであり、予約された硬着点であっただろう。
予約された硬着点に流れ込む以外になかった少女の名は、ジニ。
これは、児童養護施設に強制的に収容された、9歳の少女ジニの悲哀の物語なのだ。
その悲哀の物語の中で、以上のシークエンスは、本作の中で極めて重要なシーンである。
なぜなら、既に親に捨てられたジニにとって、今や、児童養護施設での「仮の生活」以外に行動の選択肢がないことを、「施設からの自己解放」という艱難(かんなん)な物理的行為の軟着が不可能である現実の経験を通して、残酷なまでに感受せざるを得なかったからである。
開放された門扉の向こうへの遥かなるディスタンス。
この現実の重量感が弥増(いやま)して、9歳の少女は、「仮の生活」の強制的機構の世界のうちに、ただ単に物理的なシフトを果たしたのである。
ジニは、児童養護施設での「仮の生活」への適応に対して、心理的に受容していないのだ。
ジニには、「親に捨てられた子供」という冷厳な認知が未形成だったからである。
以下、稿を変えて、その辺りの心理を考えてみたい。
少女が大人たちの止めるのも聞かず、施設の門柱の上に乗った。
寮母が少女の脚を捕捉しようとしたが、身軽な少女にかわされてしまったのだ。
不安げに事態を見詰める施設の子供たち。
「子供たちを中に。イェシンお願い!」
事態に充分対応できないカトリックの児童養護施設の修道女に代って、気丈な寮母が年長の少女に命じて、施設の子供たちを部屋に戻させた。
脚に障害を持つイェシンが、子供たちを誘導する。
そこに、もう一人の大柄な少女が、あっという間に門柱の上に登り、既に登り切って、恐々と立ち竦んでいる少女を捕捉しようとした。
「降りなよ!」
大柄な少女が叫ぶ。
「スッキ、何するの!降りなさい!」
寮母の叫びだ。
大柄な少女の名は、スッキというらしい。
そのスッキも、寮母の命で下に降りた。
立ち竦んでいる少女を捕捉できなかったからでもあった。
「門を開けたわよ。帰りなさい」
一貫して気丈な寮母は、立ち竦む少女にそう言って、門扉を開放し、周りにいた子供たちを強制的に戻らせたのである。
カトリックの施設の二人の修道女をも指示して、〈状況〉を仕切る寮母の人生経験が、このような括り切った振舞いを身体化させているのだろうか。
そう思わせる「女の強さ」が、そこに表現されていた。
誰もいなくなった施設の門柱の上で立ち竦んでいた少女は、恐々と門柱から降りて、それ以外にない行為に流れていく。
押し出されたように門外に出て、とぼとぼと歩いていくが、その脚が止まったところで、このシークエンスが閉じていった。
少女なりに「適応拒否」の意思表示を身体表現することだけが目的化されたような行為が見透かされて、もう、少女は何もできなくなった。
その直後の映像は、夜になって戻って来た少女が残飯を漁っているシーン。
空腹に耐えかねた少女の振舞いは、「適応拒否」の意思表示を身体表現する一連の、その頓挫の流れの中では至極自然なものであり、予約された硬着点であっただろう。
予約された硬着点に流れ込む以外になかった少女の名は、ジニ。
これは、児童養護施設に強制的に収容された、9歳の少女ジニの悲哀の物語なのだ。
その悲哀の物語の中で、以上のシークエンスは、本作の中で極めて重要なシーンである。
なぜなら、既に親に捨てられたジニにとって、今や、児童養護施設での「仮の生活」以外に行動の選択肢がないことを、「施設からの自己解放」という艱難(かんなん)な物理的行為の軟着が不可能である現実の経験を通して、残酷なまでに感受せざるを得なかったからである。
開放された門扉の向こうへの遥かなるディスタンス。
この現実の重量感が弥増(いやま)して、9歳の少女は、「仮の生活」の強制的機構の世界のうちに、ただ単に物理的なシフトを果たしたのである。
ジニは、児童養護施設での「仮の生活」への適応に対して、心理的に受容していないのだ。
ジニには、「親に捨てられた子供」という冷厳な認知が未形成だったからである。
以下、稿を変えて、その辺りの心理を考えてみたい。
(人生論的映画評論/冬の小鳥('09) ウニー・ルコント<「反転の発想」によって駆動してい く少女の、極めてポジティブな身体疾駆>)より抜粋http://zilgz.blogspot.com/2012/01/09.html