HANA-BI('98)   北野武 <自我が分裂した二つの〈生〉の究極の様態>

 
 ある事件によって、車椅子生活を余儀なくされたばかりか、妻子にも見捨てられ、自殺未遂の果てに、なお〈生〉を繋いでいかざるを得ない宿命を生きる元中年刑事。

 彼の名は、堀部泰助。

 彼は自らの自我の拠って立つ安寧の基盤を構築し得ないまま、アマチュア画家としての「余生」を時間に結んでいくが、彼の描く子供のような有彩色で明度の高い、暖色系の絵画のイメージと乖離するかのように、映像が記録する彼の表情には生気がすっかり削られていて、なお〈生〉を繋いでいく圧迫的な重量感だけがフィルム刻まれているのだ。

 もう一人は、その事件によって、自らのプライバシーを優先したが故に、少年期以降の親友刑事に車椅子生活を招来させたばかりか、犯人憎しの思い余った情動の、その抜け駆けの行動の暴発によって、結果的に、後輩の若い刑事を死に追い遣った挙句、自分の〈生〉の根柢を揺るがすほどの贖罪感に苛まれる中年刑事。

 加えて、彼には子供を喪った哀しみから失語症になっただけでなく、不治の病で幾許(いくばく)もない余命を生きる妻に対する思いの深さによって、遂には、「死出の道行き」を必然化させた流れ方を括っていく「生き方」=「死に方」を選択するに至った。

 彼の名は、西佳敬。そして、彼の妻の名は、美幸。

 効果的な「キタノ・ブルー」の色彩感と、些か情感過多な久石譲のBGMとの親和性の中で結ばれた映像を、本作の根幹を成す〈生〉と〈死〉の問題という以上のテーマが、二つの〈生〉と〈死〉の様態を炙り出していくのである。

 ここに、本作の中で極めて重要な会話がある。

 車椅子生活を余儀なくされた元中年刑事と、新婚早々の現役刑事である中村の会話である。

 「暇過ぎるのも大変だよ。時間潰しに絵を描いているんだけどさ。所詮、素人だよね。描くもん、なくてさ」

 この堀部の言葉に反応できない中村刑事は、微妙に話題を変えていく。

 「西さんから連絡ないですか?」

 しかし、堀部の問題意識のコアは、自分の〈生〉の有りようにしかない。

 「最近はないよ。以前にまとめて絵の道具を贈ってもらってさ、悪ことしちゃったんだけど。西さんも奥さんのことで大変なんじゃないのかな。本当のこと言うと、奥さんも、もう長いことないだろうしな。でも、考えようによっちゃ、俺より幸せだよな」

 これは、前者の元中年刑事が、映像の中で、その思いを表現した言葉。

 本作は、究極の〈生〉=究極の〈死〉の微妙だが、明らかに目指すべき方向性を意味する男たちが、対比的に描かれている。

 これは、二人の人間の二人の生き方というより、私には作り手の主題の中にあったイメージ化した人格像の中の、その自我が分裂した二つの〈生〉の様態であるように思えるのである。

 以下、本作のストーリーラインを簡単にフォローしていくことで、形而上学的なテーマ性を持つ表現世界の本質を考えていきたい。

 
(人生論的映画評論/HANA-BI('98)   北野武  <自我が分裂した二つの〈生〉の究極の様態> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/01/hana-bi98.html