キャタピラー('10) 若松孝二  <「絶対反戦」という基幹テーマの暴れ方 ―― 「『正義・不正義』という大義のラベリング化による一切の戦争」に対するアンチテーゼ>

 イメージ 11  日を追って変容する妻の優位性を顕在化させていく「権力関係」の反転現象



 長閑な村の「銃後」という限定的な状況下での、限定的な関係構造を描くことで、「戦時体制下の国家によって仮構された、『軍神』の欺瞞性と自壊」という表層的テーマを通して、視覚を抉(えぐ)るような刺激的な情報提示(本作の場合、執拗に連射される実写画像)に、非武装でナイーブ過ぎる数多の日本人への「初頭効果」が奏功したかの如き、「絶対反戦」という訴求力の高い直截なメッセージを、この監督特有の、畳み込むようなアジテーション口調で声高に映像化した一篇。

 但し、「絶対反戦」という本来の主題を、信じ難い程、チープでお座成りな「構成力」のうちにまとめたために映像処理の姑息さを露呈させてしまったが、そこに作家性の劣化が印象づけられなかっただけに惜しまれてならない。

 この映像処理の姑息ささえなければ、一貫して力強い映像の訴求力の高さは評価に値するものだった。

 これが、本作に対する私の率直な感懐。

 なお、「絶対反戦」の主題提起力の粗雑さについては後述する。

 ここでは、物語を簡単にフォローしていく。

 長閑(のどか)な村の銃後という限定的な状況下での、限定的な関係構造を構成するのは、中国戦線で四肢を失って、「軍神」として帰還した夫と、顔の半分がケロイドと化し、聴力と声帯を喪失したキャタピラー(芋虫)の如き体型を有する夫(トップ画像)を視認して、叫び声をあげて逃げる妻。

 「ご褒美をあげましょうね」
  これは、村に帰還した夫が、戦時体制下の国民国家から「軍神」に仮構されたことで、村民の尊敬の的になった挙句、「あなたは『軍神』様なのだから」という理由で、殆ど復讐的心理によって村民の前に曝される夫の屈辱への代償として、夫の「性」の処理の相手になる「貞淑な妻」が、「性」と「食」と「眠」以外に拠り所を持ち得なくなった夫に放つ常套句。

 夫を視認した際、嫁ぎ先の家を、思わず飛び出した妻も、今や、このような物言いを放つ程に、キャタピラー(芋虫)の如き体型を有する夫との物理的共存に馴致(じゅんち)していったのである。

 既に、そこには、自分の命令によってしか動けない夫との「権力関係」の反転現象が見られていた。

 「権力関係」の反転現象が、いつしか、「ご褒美」をあげるという報償性を糊塗(こと)することで、自らの「性」の渇望をも処理する行為の、ほぼ全人格的支配力のうちに、日を追って変容する妻の表情の明瞭な優位性を顕在化させていく。

 この規格外れで、エキセントリックな現象がもたらしたもの ―― それは、件の「軍神」が、中国戦線下で逃げ惑う中国娘をレイプし、殺人を犯したときの人道犯罪のトラウマがフラッシュバックし、勃起障害を惹起したことだった。

 「権力関係」の反転現象の中で、「男」と「女」の関係の決定的な優劣性という事態が再現されたとき、半壊した身体の代償として具現した、非日常から限定的日常性への物理的・心理的帰還によって、復元し得た「軍神」の自我の間隙を突き抜くかのようにして、べったりと張り付く心的外傷が突沸(とっぷつ)し、感覚の衝撃と化した恐怖感が身体化してしまったのである。

 件の「軍神」にとって、何より惨いのは、「ジョニーは戦場へ行った」(1971年製作)がそうであったように、心的外傷のフラッシュバックを供給する大脳が破壊されていなかったこと。

 そして、「軍神」にとって、何より救いとなったのは、「性」と「食」と「眠」の快楽が生き残されていたこと。

 しかし、この捨て難い快楽である「性」の愉悦には賞味期限を持っていたこと。

 この文脈に横臥(おうが)する事態こそ、「軍神」の自我を二重苦のトラップに搦(から)め捕り、フラッシュバックを間欠的に供給する加速因子にさせてしまうのだ。

 以下、その辺りの心理学的風景について、稿を変えて言及していく。
 
 
 
(人生論的映画評論/キャタピラー('10) 若松孝二    <「絶対反戦」という基幹テーマの暴れ方 ―― 「『正義・不正義』という大義のラベリング化による一切の戦争」に対するアンチテーゼ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.com/2012/02/10.html