バビロンの陽光('10) モハメド・アルダラジー <「煩悶の人生の集約的な最終到達点」と、自立に関わる行程の萌芽を内包する初発点という、二つのイメージに結ばれた一つの旅の物語>

  1  「煩悶の人生の集約的な最終到達点」と、自立に関わる行程の萌芽を内包する初発点という、二つのイメージに結ばれた一つの旅の物語

 

 これは、身体化された記憶にどっぷりと張り付く、失った「過去」を追う老婆=祖母と、身体性の媒介のない、「過去」を追うことを強いられた少年=孫との間に広がる、微妙だが、しかし決定的な距離を持つ、南へ向かう一つの大きな旅が、まさに、人生の中で特化された由々しき旅の行程を通して、祖母の旅の、身体化された「過去」の生命のラインに、孫の旅のそれが自立的に辿り着き、融合していくことで、「過去」を追うことを強いられた旅を、「バビロンの空中庭園」にシンボライズされたように、「希望」に収斂される、独自の「未来」を切り開く旅にシフトさせるイメージに結ばれた物語である。

 老婆=祖母の旅は、12年間もの間、消息のない息子の所在を捜索し続けて来て、累加された「煩悶の人生の集約的な最終到達点」であるが、少年=孫の旅は、音楽家であった父が残した縦笛という物理的記号によってしか繋がり得ない、幻想の父を追う、自立に関わる行程の萌芽を内包する初発点であると言っていい。

 当然の如く、一つの旅が抱える重量感には決定的な落差がある。

 祖母と孫という関係の紐帯(ちゅうたい)によって遂行された旅は、祖母の「煩悶の人生の集約的な最終到達点」であるが故に、初めから絶望的な空気感を抱懐していた。

 映像の冒頭から開かれた、クルディスタンの荒涼とした砂漠の中で、祖母と孫の情感言語の交通が希薄なシーンによって提示されていた。

 少年の名は、アーメッド。

 12歳である。

 黙々と歩く祖母と、大自然の中枢で戯れたり、下手な縦笛を吹いたりするアーメッド。

 トラックが通っても、祈りを止めない祖母を横目に、クレームををつけるアーメッド。

 「お婆ちゃんのせいだ。もう帰る」

 ようやく通ったトラックに、金を払って乗せてもらっても、肝心の目的地であるナシリアまでの、900kmに及ぶ遠大なる南下の旅である。

 ナシリアとは、祖母の息子=少年の父である、イブラヒムが捕捉されているという刑務所の名前のこと。

 アンファル作戦(注)という、忌まわしき言葉をトラック運転手から聞き知っても、他人事の世界としか感受し得ない少年にとって、ナシリア行きよりも、学校で習った「バビロンの空中庭園」の方が魅力的な場所なのである。

 2003年、フセイン政権崩壊から3週間後のことだ。

 父に対する情感的記憶を有しないアーメッド少年の旅の目的が、クルド語しか話せない祖母の通訳係という役割以上のものであるにも関わらず、「煩悶の人生の集約的な最終到達点」である祖母の旅の、鋭角的な情感濃度の高みに合わせられる訳がないのは当然過ぎることだった。

 圧倒的に乖離する情感濃度の漂流感による、ゲーム感覚の放恣な流れ方。

 それが、自立に関わる初発の行程であるという感覚に届き得ぬ以前の、アーメッド少年の旅の行程の様態であった。

 そんな旅の様態であったが故に、アーメッド少年は、祖母との情感言語の円滑な交通も儘ならず、ハードルの高い難儀な旅を紡いでいくしかなかったのである。


(注)フセイン政権下のイラクで、1988年に集中的に遂行されたクルド人虐殺事件のこと。化学兵器の使用による虐殺の罪で、この作戦を指揮した「ケミカル・アリ」(国防相のアルマジド)は、2010年に死刑を執行された。

 
 
(人生論的映画評論・続/バビロンの陽光('10) モハメド・アルダラジー <「煩悶の人生の集約的な最終到達点」と、自立に関わる行程の萌芽を内包する初発点という、二つのイメージに結ばれた一つの旅の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.com/2012/03/10.html