悪人('10) 李相日  <延長された「母殺し」のリアリティに最近接した男の多面性と、「母性」を体現した女の決定的な変容 ―― 構築的映像の最高到達点>

  1  無傷で生還し得ない者たちの映画



 言わずもがなのことだが、本作は、主要登場人物8人(祐一、光代、祐一の祖母、祐一の母、佳乃、佳乃の父の佳男、佳乃の母、増尾、)のうち、物理的に生還できなかった者(佳乃)を除いて、無傷で生還しなかった者は一人もいなかった映画である。

 そこに複雑な事情が込み入っていたにせよ、物語の中枢に歴とした殺人事件が存在し、近未来において、その殺人事件が立件されていくに違いないからだ。

 立件された殺人事件には、特定された加害者と被害者(画像)がいて、それぞれに家族が存在する。

 更に、立件された事件の被告でなかったにしても、事件に直接的・間接的に関与したことで、この事件から被った何某かの因子によって無傷では済まされないからである。

 そんな登場人物の中で、本作を支配し切っていた登場人物が、「ラブ・ストーリー」の体裁を仮構して物語を推進していった、二人の若い男女であることは言うまでもない。

 そして、この重層化された物語の中で、主題に関わる振舞いを見せることで、本作を、その根柢において支え切っていた人物もまた、二人いる。

 まもなく立件されるだろう、殺人事件の被害者である佳乃の父の佳男と、事件の被告となる祐一の祖母である。

 その辺りから書いていく。
  2  憤怒のエネルギー変換を成就させた被害者の父 ―― 「ひた向き」に生きる大人の象徴として①



 殺人事件の被害者である佳乃の父の佳男と、事件の被告となる祐一の祖母。

 この二人の大人の存在は、物語の中で、「ひた向き」に生きる大人の象徴として人物造形されていた。

 その一人、被害者の父である佳男の場合は、「対象喪失」の懊悩を最も精緻に描かれていたと言える。

 当初、そのやり場のない憤怒を、娘の進路を自由にさせた妻に当り散らしていたが、同時に、「対象喪失」の懊悩を一身に受け止める妻の精神状態のうちに、概念的把握とは無縁に、「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)の危うさを見るに及んで、限りなく自己を相対化しようと努めていく。
 
 彼にとって、今や、やり場のないその憤怒を、娘を遺棄したと信じる軽薄な大学生(増尾)に向けられたのである。

 無論、彼の中で、不肖の娘の振舞いの全てが正当化されている訳ではなかった。

 現に、福岡の保険会社のOLをしている娘が、都合のいいときにのみ自分を利用する要領の良さを熟知していたし、それに対して不満も持っていた。

 育て方の失敗の一因が自分にもある、と認知していたであろう。

 それでも、娘を遺棄した男(画像)である増尾に、彼の憤怒が集中する心理は理解し得るものだ。

 遺棄された行為によって被る、精神的・身体的ダメージの甚大さを想像することで、遺棄した男の非人間性だけがイメージとして肥大していくからである。

 だから、彼は男に向かっていく。

 その軽薄な男に、徒手空拳で向かっていくのだ。

 「何で佳乃を置き去りにした!お前のせいで、佳乃は死んだんだぞ!謝れ!」

 軽薄な男に足蹴にされる、「ひた向き」に生きてきた男。

 映像は、娘と同様に足蹴にされ、遺棄された構図を再現したのである。

 今度は、右手にスパナを携えて、軽薄な男が屯(たむろ)っている飲食店に向かっていくのだ。
 軽薄な男の軽薄な雑談を目の当たりにして、「ひた向き」に生きてきた男は、後から入って来た男の友人に、噛んで含めるように吐露していく。

 「あんた、大切な人はおるねん?その人の幸せな様子を思うだけで、自分まで嬉しくなってくるような人は。今の世の中、大切な人がおらん人間が多過ぎる。自分には、失うものがないちゅう思い込んで、それで、強くなった気になっとる。だけんよ、自分が余裕のある人間と思い腐って、失ったり、欲しがったりしている人をバカにした眼で眺めとう。そうじゃないとよ。そうじゃ、人間はダメとよ」

 映像は、佳男の吐露がナレーション効果に昇華して、逃避行中の二人の主人公と、祐一に代って、夫を介護する祖母を映し出す。

 この説明的な台詞を耳にして、正直言って愕然としたが、この台詞なしに、そこに含まれる本作の基幹テーマの一つを役者に表現させることの困難さを先読みすることで、より分りやすい映像の創出を狙ったのだろう。

 それにしても、分りやす過ぎないか。

 いずれにせよ、「大切な人」を持つことで、自我を安寧にさせていく努力なしに、「日常性の秩序」を構築し得ないのである。

 そう言いたいのだろう。

 それこそが、人生を疎(おろそ)かにせずに、「ひた向き」に生きる者の証であるというメッセージが、「ひた向き」に生きることを忘れた者たちを相対化する精神的パワーとして、本作を貫流していた。

 「大切な人」を喪った男は、それでも、自分を待つ妻がいる場所へ生還する意志を捨てないことによって、右手に握られたスパナを、最も憎き男に降り下ろすることなく、憤怒のエネルギー変換を成就させたのである。

 
 
(人生論的映画評論/悪人('10) 李相日  <延長された「母殺し」のリアリティに最近接した男の多面性と、「母性」を体現した女の決定的な変容 ―― 構築的映像の最高到達点>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/06/10.html