ミツバチのささやき('73) ヴィクトル・エリセ <「家族の再生」の物語に軟着させた「非武装なるイノセント」の復元力>

1  「幼児」と「児童」の見えないボーダーが駆動させた「善きもの」への好奇心



「なぜ、怪物はあの子を殺したの?なぜ、怪物も殺されたの?」
 「怪物もあの子も殺されてないのよ。映画の中の出来事は全部嘘だから。私、あの怪物が生きてるのを見たもの。村外れに隠れて住んでいるの。他の人には見えないの。夜に出歩くから。精霊なの。でも、精霊は体を持ってないの。だから殺されないの」
 「でも、映画では体があったわ」
 「あれは出歩くときの変装なのよ。お友達になれば、いつでもお話できるのよ。眼を閉じて、呼びかけるの。”私はアナです”」

本作を狭義に解釈すれば、姉妹のこの短い会話の中に、提示された映像総体の主題が凝縮されていると思う。

尋ねるのは、妹のアナ。
 
本作の愛くるしいヒロインである。

眠い眼を擦りながら尋ねられたのは、アナの姉であるイザベル。

姉妹の年齢は不分明である。

映像の中で、正確に提示されていないからだ。(注1

ただ、はっきりと言えるのは、これは、「幼児」と「児童」の会話であるということである。

この見えないボーダーが、精緻な空間構成で、陰翳の構図に差し込まれた窓からの光線によって、オブジェや人物の存在感を際立たせるするフェルメール絵画のように、随所に照射される姉妹の情感や認識のズレを明瞭に隔てている。

この会話の前提にあるのは、その日、姉妹が巡回映画で観た「フランケンシュタイン」(注2)のシーンである。

「この映画『フランケンシュタイン』は、人間を創造しようとした科学者の話です。人類創造は、神の御業なのを忘れた人の話です。人類創造の神秘に迫る生と死の物語です」

これは、「フランケンシュタイン」のフィルムの冒頭での説明。
 
その「恐怖誘導」に引き付けられた幼女の黒い瞳が輝いて、サイレントのフィルムに釘づけになってしまったアナ。

フランケンシュタインの怪物」(フランケンシュタインが創造した凶暴な怪物という意味)が殺したと思える幼女を抱き上げていくが、最後に自らも村人たちから殺害されてしまうシーンに、アナは疑問を呈したのだ。

虚構の世界の物語を相対化できないアナの執拗な発問に対して、イザベルは、その場凌ぎの作りごとを話すことで、その夜は閉じていく。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ミツバチのささやき('73) ヴィクトル・エリセ  <「家族の再生」の物語に軟着させた「非武装なるイノセント」の復元力>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/05/73.html