定着への揺らぎと憧憬―「寅さん」とは何だったのか

 一切の近代的利器とは情感的に切れる生き方を徹底させ、渡し舟に乗り、月夜の晩に故郷を懐かしむリリシズムが全篇に漂う中、その男は純愛を貫くのである。

 人々は映像の嘘と知りつつも、この架空のヒーローに深々と思いを込めていき、気がついたら、自分たちがせっせと愉しむ下半身の風俗のタブーを、映像の主人公と、それを演じる俳優の双方に貼り付けてしまっていた。過剰な時代を拙速に駆け抜けようとする私たちの身勝手さが、物語をより過剰にしてしまったのかも知れない。

 「反近代」の庶民の旗手としての記号に生きたその男は、「光の近代」の心地良いイメージとどこかで切り離されたような、言わば、りんどうの花が遠慮げに季節を告げるローカルな世界を彷徨するが、まさに、その「光の近代」との摩擦を擦り抜けるスキルを併せ持っていた。

 男は近代の匂いを情感的に好まないが、その近代とは決して対決しないのだ。一人の女(「夕焼け小焼け」の太地喜和子)を苦しめる悪徳業者との対決を回避したその男には、未知なる他者に対する自分の本来の職掌が、癒しのパートナー以外でないことをとうに認知しているのである。

 男の旅は、この国の古き良き伝統に回帰することで自らを癒し、自分より弱き立場にあると信じる女性たちの、その負性なる環境の重しを、彼なりの固有の、過剰なまでに親切なパフォーマンスによって、ほんの少し削ってあげることにある。

 だが、男は引き受けない。引き受けられないのである。

 男の異性愛が、常に純愛より奥に進めないのは、男の役割が、旅先に出会った悩める女性の傷を、一時(いっとき)手当てすることにしかないからである。傷心の女性の内側を癒して、体の芯を暖めてあげる。そこに、男の真骨頂があるのだ。

 そのことを示す印象的な描写が、シリーズ最晩年の作品(「寅次郎の縁談」)の中にある。

 就職活動に失敗した満男(吉岡秀隆)が家出をして、そこで恋をする。瀬戸内の小島にいる満男に、妹夫婦から頼まれて、寅さんが会いに行くという設定だ。そこで、いつものように薄幸の女(松坂慶子)と出会い、恋をする。

 例によって、若者と中年の恋が進行するが、その若者に薄幸の女が語っていく。

 「あのね、満男君、男の魅力は顔やお金じゃないんよ。あなたはまだ若いから、寅さんの値打ちが分らんのよ」
 
 満男が不思議そうに切り返す。

 「伯父さん、どんな魅力があるんですか?」

 女は噛んで含めるように、静かに反応した。

 「暖かいの。それも、体の外から熱風を吹きつけるような暖かさじゃのうて、ほら寒い冬の日、かじかんだような手を、お母さんがじっと握ってくれたときのような、体の芯から温まるような暖かさ・・・」

 女がそう言った後、満男は伯父(寅さん)に対する女の感情を察知するが、女が説明した言葉の微妙なニュアンスに達するには、あまりに若すぎた。

 この「体の芯が温まるような暖かさ」を、直進的な若者が理解するのはとても難しいことでもある。寅さんと内面的にクロスする女が、恐らく類似したイメージで語るに違いない、この「体の芯が温まるような暖かさ」の意味を満男が実感的に理解する前に、彼にはそもそも、好きな女に対する伯父のスタンスの取り方が不可解なのである。

 そのことを象徴するシーンがある。
 
 淡い恋の調べの中での、満男と泉(後藤久美子)の会話である。「寅次郎の告白」からの台詞を再現してみよう。

 「あの伯父さんはね、手の届かない女の人には夢中になるんだけど、その人が伯父さんを好きになると、慌てて逃げだすんだよ。今まで何遍もそんなことがあって、その度に俺のお袋が泣いていたよ。“バカね、お兄ちゃんは”、なんて言って」
 「どうしてなの?どうして逃げ出すの?」
 
 問い詰められて、満男は仕方なく答える・
 
 「つまりさ、きれいな花が咲いているとするだろう。その花をそっとして置きたい気持ちと、奪い取ってしまいたいという気持ちが、男にはあるんだよ」
 「ふぅーん・・・」
 「伯父さんはどっちかというと、そっとして置きたい気持ちの方が強いんじゃないかな」
 「じゃあ、先輩はどうなの?」
 「俺は奪い取ってしまう方さ、何ちゃってね」    

 満男は思いを寄せるガールフレンドの前で、そう虚勢を張って見せた。若者にはそのような虚勢も、男の普通の態度表明であると思っているようである。

 ところが、好きな女がすぐ手の届く距離に迫ったら、忽ちのうちに退散する伯父の逃げ腰の反応が、普通の対異性感覚を保有する若者にとって、いつだって理解の及ばぬ世界でしかないのだ。

 好きだから恋をするのであり、恋をするから結ばれるのである。それが恋する男女の自然な姿である、と満男は思っている。しばしば、好き合っているのに結ばれない伯父の恋のナイーブさが、満男にはとうてい了解できないのである。
 
 出会いがあって、恋がある。恋があって結ばれる。

 その先に家族があって、平凡な家庭がある。マイホームがあって、心地良い団欒がある。変わらぬ繋がりがあり、世代の継承がある。そこに、人々の自我の安定の拠り所がある。幸福がある。幸福の持続した時間の流れがある。
 
 大方の人が抱懐する、「幸福」という観念に対する、このような平均的なイメージには、当然の如く、恋する男女の空間的な定着が前提になっている。満男もその例外ではない。定着の決意に届かない者には、恋の先に待機する世界には踏み込めないのだ。

 満男もまた、瀬戸内の島に骨を埋める覚悟に至らなかったから、伯父の気持ちが全く分らない訳ではない。しかし自分の場合は、恋を立ち上げても、未だそこに、もう一つ継続力が足りないのである。だから仕方ない、という思いがあるのだ。

 ところが、伯父の場合は少々違う。

 伯父は常に、確信的にそこへ踏み込まないようなのだ。それは殆ど、相思相愛のように見えるリリー(浅丘ルリ子)との関係において決定的であると言っていい。自分は確信がないから踏み込めないが、伯父の場合は確信を持って踏み込まないのだろうか。

 ではなぜ、伯父は恋に走るのか。

 そこに、恋をする男の真摯さが果たして見られるのか。伯父はただ、恋愛をゲームとして愉しんでいるだけではないか。ゲームプレイヤーがゲームオーバーのとき、一瞬見せるあの苦悶の表情は、単にゲームと分れるときの寂しさに由来するだけなのか、等々と、満男が深い思索の世界に分け入ったら、満男の恋愛道も経験した者でなければ理解できない、蠱惑(こわく)なる世界の階梯を一つ昇るに違いないが、大衆の広範な支持に支えられた国民的映画に、哲学は相応しくないのだ。

 女の肌を忌避し(「寅次郎あじさいの恋」で、いしだあゆみからのアプローチを拒否)、惚れた女から、「寅ちゃんとなら、一緒に暮らしてもいいわ」と言われて、ジョークで切り抜ける寅さん(「寅次郎夢枕」で、八千草薫からのプロポーズを拒否)が、真剣に定着を模索した節がなくもない。

 シリーズ7作目にあたる、「男はつらいよ 奮闘篇」である。

 静岡のラーメン屋で、津軽から集団就職で働きに来て、郷里に帰ろうとする精神遅滞の少女(榊原るみ)と出会った寅さんは、例によって、癒しの達人の本領を発揮する。

 やがて、葛飾柴又の団子屋の店を手伝うようになった少女は、江戸川の土手という最高のステージで、寅さんにその素直な思いを吐露する。

 「寅ちゃんには、嫁っこいるか?わたす、寅ちゃんの嫁っこになるかな」

 思いもかけぬ告白に動揺する寅さんは、「笑わせるなよ」と照れながらも、「もう、どこにも行くなよ。俺が一生面倒見るから」と言い放ったのだ。

 これは、明確なプロポーズである。「寅さん」と呼ばれる天真爛漫な一人の香具師は、一人の純情な少女と世帯を持とうと思ったのである。

 もしかしたら、初めて真剣に結婚のことを考えたであろう寅さんは、妹さくら夫婦に、結婚後の生活費の相談までする。家族の者も、二人の結婚について真剣に話し合い、賛成の方向でまとまっていく。

 そんなとき、少女の郷里の学校の担任がとら屋に訪ねて来て、少女を連れ帰ってしまうという、シリーズの予約されたラインをなぞっていくことで、寅さんの失恋譚は予定調和の世界のうちに幕を下ろす。

 このエピソードを見る限り、寅さんは確信的で、不動なる移動生活者であるとは言い難い。少なくとも、西行山頭火のような漂泊者の流れ方とは一線を画すと言っていい。彼らには、漂泊するしかなかった内的必然性が感じられるが、寅さんの自我には、それほど深刻な手負いの傷跡が刻まれてはいないのだ。

 
(「心の風景/定着への揺らぎと憧憬―「寅さん」とは何だったのか」より)http://www.freezilx2g.com/2008/12/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)