崩されゆく『打たれ強さ』の免疫力

 今井正監督の最高傑作とも思える、「キクとイサム」(1959年製作/写真)の映画評論を書き終わった後、本作の主要なテーマである、「差別」の問題と離れて言及したい由々しきテーマが、私の中で出来(しゅったい)してしまった。映像を通して、キクという子供の裸形の振舞いと共感含みに付き合っている内に、その思いが昂じてきた次第である。
 
 そのテーマは、「崩されゆく『打たれ強さ』の免疫力」。        

 以下、そのテーマについて言及していく。

 主人公であるキクが、映像で表現したその骨太の生き方を、「いじめ」に悩む現代の子供たちに対して安直にモデル提示するのは、あまりに粗雑な議論であることを、まず前提に把握しておきたい。当然、そこに時代状況の差と、その時代に生きた者たちの個人差というものが存在するからだ。

 しかし、その現実を認めてもなお残る、人間の自我の免疫力の問題についての言及には意味があると考える。

 それについて書いていく。

 均しく貧しかった時代の中で呼吸を繋いだ子供たちには、殆んど均しいまでの「打たれ強さ」の免疫力が備わっていたという事実の重量感―― それは無視し難いであろう。

 豊かな時代の文化は確実に子供たちの脚力を奪い、その突破力を削り取っていく。少子化の極みの中で、「我が家の愛児」は大抵過剰に把握され、必要以上に保護されていく。そうした過剰把握のツケが、子供たちにとって唯一の共同体である学校空間で、様々な形で不適応な様態を晒すことになる。

 「少なく生んで、大切に育てる」――「一児豪華主義」とも揶揄(やゆ)される先進国文明下の子育ての内実は、「大切に育て上げる」という文句の余地のない心地良い文脈の内に、少なからず、その矛盾の奇形的突出を不可避とする問題性を様々に同居させてしまっているのである。

 「大切に育てる」対象が一児、もしくは二児に集中し、且つ、その愛児を大学まで進学させ得るサポートラインが、経済的にほぼ一般的に確立されている状況下で、その子供の能力のレベルや感情傾向と少しばかり切れた辺りまで、「教育・育児」の範域が無造作に広げられたとき、殆ど際限なく伸ばされた保護の稜線の中で、子供たちは特権的に囲い込まれ、特定的に捕捉されていく。

 そこで補捉された子供たちの自我は、「自分の力で生き抜く逞しさ」をリアルな視線で期待されることよりも、社会にいつの時代でも現出するであろう、「その時々の悪と、時代を超えた普遍的な悪」の侵入からの防御ネットの構築への配慮に、汎社会的な観念、即ち、「怖い時代に晒される不安感情」のうねりが集中的に、且つ、過剰なまでに集合してしまうから、愛情バリアの社会的定着という思いの内に流れ込んでしまうのである。

 自分たちの人数より遥かに多い大人たちがリードする、この先進国文明下の社会の中では、子供たちに要求されるイメージモデルは、愛情対象の絶対的存在という枠内で設定された、「人とは違う、自分の個性的な生き方」であり、どちらかと言えば、社会に十全な適応を果たしていくための最低限のルールや、規範意識の自我形成の文脈という点については形式的であり、二義的なものであるという印象が強い。

 そのイメージを誇張すれば、子供はやりたければ、自分の好きなものを好きなだけやればいいし、「ニワトリ症候群」(注1)という新語に象徴されているように、食べたくない朝食を抜くのも結構であるということ。但し、人並みの学力と思いやりだけは持って欲しい。こんな矛盾した要求が、しばしばダブルバインド(注2)となって愛児を心理的に縛り上げるが、親たちがそれについてあまりに無頓着であるように思われる。

 親は我が子に、「成績よりも心が優しく、健康な子になって欲しい」などと要求し、そのために、殆どその根拠が稀薄な音楽や絵画やスイミング・プール等、様々な表現文化に好きなだけ馴染ませるが、その時点で、「委託主義」を全開させてしまう矛盾にすら気づかない教育感性の次元の低俗さ。

 しかし、我が子が思春期を迎える頃には、進路という現実的テーマが迫ってきて、ゲームばかり興じる我が子に、「せめて人並みの成績だけは維持してくれ」という本音が露骨に表出されてくる。

 それでも子供と直接的コンタクトをとり得ない父親は、幼少時期以来のフレンドリーな関係性を壊すことを恐れてか、相変わらず、「勉強より心と体」を求めるメッセージを力なく送っていくが、思春期に入った我が子には、そんな奇麗事は一切通じない。彼らは彼らなりの自我形成をそれなりに果たしていて、親が放つメッセージのダブルバインド性の矛盾を嗅ぎ取ってしまっているのである。

 しかもメッセージを放ち続ける父親自身が、何よりも「委託主義」の権化になってしまっているのだ。

 口と金は出すが、しかし万引きした我が子を殴れない脆弱さと欺瞞性。

 結局、教育と育児に関する最も肝心で、繊細な部分に繋がってこなかったツケが、そこで存分に支払わされることになるのである。幼稚園や小学校の低学年時代には、ビデオカメラを手に運動会や文化祭に先陣を切って駆けつけたのに、生意気な口を聞く年齢になってしまったら、もう肝心な部分での身体的、精神的クロスが困難になり、殆どお手上げの状態という訳だ。

 そこに至って、最も肝心な規範意識を自覚的、主体的に教育して来なかった分だけのペナルティを受け取ることになるであろう。あろうことか、躾に近い関係構築を外部機関に委託してきた分だけのペナルティこそが、まさにそれであると言っていい。


 規範意識は、その自我が未だ不定形な裸形のラインを漂流する幼児期にこそ、親によってその原形が形成されねばならない何かである。子供の自我を作るのは、その子供の最も近くにいる大人の責任以外ではない。言わずもがなのことだが、親以外にその責任を請け負う者がいる訳がないのだ。

 最低限の規範意識をその自我の内に固められなかった子供は、「快不快の原理」で振舞うことを禁じられる、学校空間という異質の文化体系に適応できず、授業中勝手に徘徊したり、ゲームや携帯という利器を手放せなくなってしまったりという始末。

 普通の授業が成立しないという異常な事態の根柢には、「損得の原理」=「現実原則」というものを、その自我の内に固め上げることを筆頭のプライオリティとして、我が子とクロスしてこなかった親たちの、その不均衡な関係様態が横臥(おうが)している。

 この認知こそ、豊かな社会状況下に呼吸を繋ぐ者たちの、切に文化文明論的な把握の中枢に据えるべきテーマであると考えている次第である。

 それ以外にも、様々に複雑な問題が絡み合っているが、テーマ言及から大幅に逸脱するので、とりあえずその一点の把握の緊要さのみを、ここでは指摘するに留めておく。

 少なくとも、以上の文脈を前提にしたとき、私は、現代の「いじめ」に代表される子供たちの様々な問題の本質に肉薄できると考えている。

 考えても見よう。

 まともな規範意識が育ってない自我に、「心の優しさと身体の健康感」を要求するのは、「人間に空を飛べ」と命令するのと同様、理想主義としての芳醇なパワーにすら近づけない暴論であると言っていい。

 万引きをした我が子を殴れない親が、どのような奇麗事を吐いても全く説得力を持たないのと同じように、そんな親に育てられた子供たちの暴走を、外部機関に委託するだけの家庭力の中から、一体、どのような教育的文脈が導き出されるのか、想像するまでもまないことである。

 骨格が削られた「家庭力」の心地良さは、「快不快の原理」が無秩序に乱脈することに不感症になった者たちの自我が、既にその本来的な機能を果たし得ない醜態さを晒す時間の内にしか存在しないのだ。
 
 人類社会が「いじめ」の問題を完全解消する時代が、本当に到来すると思っているのか。あり得ないことをグダグダ吐き続けて、お茶を濁すヒューマニズムの欺瞞性などと逸早く切れて、せいぜい、「いじめ」に負けない自我を育てるにはどうしたらいいのかというテーマをこそ、真剣に論ずるべきなのである。

 それには何よりも、規範意識の内的強化と、現実原則を内化した自我の一定の達成が求められるであろう。そしてそのような内的秩序の安定感を基盤にした、言わば、自我の社会化というテーマを、普通の律動感で固め上げていく一定の人格的達成に到達すること、それが緊要である。

 しかしそれは、「何も欲しいものがない」という答えが、「今、欲しいものは何か?」というアンケートの第二位になるほどの、この過剰な文明社会の只中で達成しなければならないのである。

 そこにこそ、時代の制約が濃密に絡み付いているのだが、先述したように、自我の社会化という普遍的テーマの存在が軽視されつつも、その必要性までも否定しない人々の思いがなお生き残る限り、普通のサイズの自我を形成するだけの作業が、その普通の家庭力のゾーンで遂行不能である訳がないのだ。そのような、本来的に普通のサイズの自我を、普通に作り上げていくことの喫緊性こそ、まさに現代的課題であると言っていい。

 そこで普通に作られただけの自我の内にこそ、「打たれ強さ」の免疫力を可能にするエッセンスが含まれている。私はそう信じて止まないのである。

 明言してもいい。

 「打たれ強さ」の免疫力の低下の問題は、必ずしも均しく貧しかった時代が生んだ、「自分だけが辛いわけではない」という把握の安心感の内にのみ還元されるものではない。

 いつの時代にも、その時代に合った辛さの感覚が存在し、その感覚が捕捉した世界の中で人々は悩み、傷つき、時には自死にすら至るであろう。だからそんな時代にも、その時代に合った「打たれ強さ」の免疫力を作り出す余地は充分に存在するし、それを作り出すモチーフも巷にゴロゴロしているはずだ。

 「打たれ強さ」の免疫力は、単(ひとえ)に、その自我の内に固められている思いや感情や思考の束の結束力と、その強靭さに関わっていると言えるのである。

 それ故に、それは本質的に形成的なものであるし、その形成力は、その自我を作り上げた大人たちの全人格的な教育能力にこそ与(あずか)って止まないのもなのだ。彼らが作り上げた規範意識のレベルと、その内にどれだけの秩序を保証し得たのかという問題こそが緊要なのである。それ以外ではないのだ。

 
(「心の風景/崩されゆく『打たれ強さ』の免疫力」より)http://www.freezilx2g.com/2008/12/blog-post_10.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)