愛の嵐(‘73) リリアーナ・カヴァーニ  <男の「加害者性」によって被弾した女の、明瞭な「被害者性」の残酷の極点>

イメージ 11  地獄を通過して来た者の健全な復元は困難である

これは、加害者であれ、被害者であれ、「地獄を通過して来た者の健全な復元は困難である」という問題意識の下、本来、特化された「狂気」の空間で死ぬべきはずだった男と女が、時代が移ろっても、空洞化された魂に何も埋められず、ただ漫然と生き長らえている心的状況下で、運命的な再会を果たしたことによって化学反応を起こし、彼らの「遅すぎた死」に追いついていく物語を、一貫して、頽廃的な映像イメージの内に描き切った秀作である。

絶対的な「権力関係」しか存在しない強制収容所の、その出口なき閉塞状況下で、感受性が最も昂ぶる青春前期の身体の総体に、否応なく刷り込まれた倒錯的な性愛によって、その後の人生のクリアな導入口を塞がれてしまった女がいる。

そして、その女に、倒錯的な性愛を刷り込んだ男がいる。

しかし、男と女の権力関係を支えていた、拠って立つ絶対的な国民国家の物語が自壊したとき、女は解放され、男は地下に潜った。

逼迫した状態下で、地下に潜った男が依拠した物語は、「栄光のナチズムの復興」を唱導する男たちの、愚昧なる時代錯誤の秘密組織だった。

ナチス党員の逃亡支援のために結成されたと言われる、SS(親衛隊)の残党組織 ―― 「オデッサ」である。

ここで注意すべき点は、「オデッサ」の本質が、「栄光のナチズムの復興」という幻想になく、ただ単に、自らが犯してきた人道犯罪を否定することで、「神」からの罰を免れる程度において、自我が「贖罪意識」に捕捉される心的行程を屠ってしまう防衛戦略にあるということ ―― これに尽きるだろう。

その「オデッサ」と思しき組織に形式的に潜入するだけの男の人生は、深い冥闇(めいあん)の森の中で、自らを投げ入れるべき「物語」を抱懐し得ないニヒリズムに捕捉されていて、その魂には、生気の欠片を見出すことが難しかった。  

「僕は敢えて、ドブネズミの人生を選んだんだ。夜、働くには訳がある。光だよ。私には、光が眩しいんだ」

男が依拠した秘密組織に吐露した言葉こそ、魂を吸い取られた男の人生の、寒々しい風景の弾力性なき様態だった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/愛の嵐(‘73) リリアーナ・カヴァーニ  <男の「加害者性」によって被弾した女の、明瞭な「被害者性」の残酷の極点> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/04/73.html