4分間のピアニスト('06)  クリス・クラウス <「表現爆発」に至る物語加工の大いなる違和感>

イメージ 11  簡潔な粗筋の紹介



本稿に入る前に、以下、本作の粗筋を簡潔にまとめておこう。

ピアノ教師として女子刑務所に赴任して来た80歳のクリューガーは、新入りのジェニーが机を鍵盤代わりにして指を動かす姿を見て、一瞬にして抜きん出た才能を認知する。

「未来のモーツァルト」を目指してピアノの練習に励んでいたジェニーは、何度か国際コンクールで入賞した実績を持っていたが、12歳のとき、養父によってレイプされるという心の傷を負ってしまい、以後、荒んだ青春を送っていた。

そんなジェニーを見て、彼女の才能を花開かせることこそが自分の使命だと感じたクリューガーは、所長を説得してピアノのレッスンを始めようとするが、ポップミュージックを弾くジェニーの音楽を「低俗」と決めつけて簡単に折り合えなかった。

冤罪の殺人事件の女囚として刑務所に入所しても、ジェニーが起こした看守への暴行事件によって、遂に手錠監禁される始末。

それでも、ジェニーの「才能を生かす使命」「を感じたクリューガーは、ジェニーとの紆余曲折の関係を経ながらも一定の信頼関係を構築する。

クリューガーもまた、ナチス時代に同性愛者を裏切ったという深き闇の世界を引き摺っていて、そのトラウマも関与して、ジェニーの「才能を生かす使命」を継続させていたのである。

2人の関係を快く思わない看守による卑劣な陰謀が、決勝コンクールを数日後に控えたジェニーを暴力事件に巻き込み、再び監禁される事態を出来した。

覚悟を決めたクリューガーは、ジェニーを刑務所から脱出させるという行動に打って出た。ジェニーをドイツ・オペラ座での決勝コンクールに参加させるためである。

彼女を逮捕するために集結した多くの警察官の包囲網の中で、「4分間のピアニスト」として、満席の聴衆の度肝を抜くジェニーのピアノ演奏が開かれたのだ。


(以上、「シネマカフェ・ネット」を部分的に参考にした)



2  ヒューマンドラマとサスペンス映画の無秩序な混淆①



結論から書いていく。

本作の最大のウィークポイントは、物語構成の統一感の欠如にある。

具体的には、音楽という一つの芸術表現との関わりの中で、ヒューマンドラマの中にサスペンス映画が必要以上に侵入してしまったこと。それ以外ではない。

要するに、ヒューマンドラマとサスペンス映画が無秩序に混淆し、テーマを拡散させてしまったことが何より問題なのである。

そのテーマとは何か。

ここに作り手自身のインタビュー記事があるので、引用してみる。

「--Q.本作で一番描きたかったことは何でしょうか。

ストーリーの中で伝えたいことというのは、後からはっきりしてくるものです。ストーリーを作るというのは直感的な作業です。まずストーリーができて、それが何を意味するかは、後から、ひょっとすると完成してから、ストーリーの展開の中ではっきりしてきます。本作は、自由、個人の自由というものに強く関わっていると思います。
そして、自由が最もその効果を現すのは、人間にとって最も非実利的な領域、つまり芸術を創る、あるいは、芸術を堪能する行為においてなのだ、ということが次第に分かってきました。これが、本作の主題だと思います。人は内なる自由にいかにして到達するのか、また、どうしたらその手助けができるのか、ということです」((HP「Let’s Enjoy TOKYO」より/筆写段落構成)

「人は内なる自由にいかにして到達するのか、また、どうしたらその手助けができるのか、ということ」を主題にしたことで、ラストシーンの「4分間のピアニスト」を大団円に持っていき、その「4分間のピアニスト」に官憲の手錠を掛けられるところで閉じていくという映像の括り方には、「作り過ぎ」のあざとさが見え隠れするものの、サスペンスタッチで映像展開を繋いできたことによって、テーマ拡散させてきた物語の主題を鮮明にするためには、「最高のパフォーマンスを身体化した最高のステージでの手錠捕縛」の描写なしに済まなくなったのである。

或いは、この勝負を賭けた決定的な描写に流れ込むために、複雑なプロット展開を捏(こ)ね回してきたとも言えるだろう。

 
 
(人生論的映画評論/4分間のピアニスト('06)  クリス・クラウス <「表現爆発」に至る物語加工の大いなる違和感> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/01/06.html