ハリーとトント('74) ポール・マザースキー<「関係の達人」としての「英知」溢れる「人生の達人」>

イメージ 11  「生活知」と「人生知」



「老年期 生き生きしたかかわりあい」(E.H.エリクソン他著、朝長正徳・梨枝子訳 みすず書房刊)によると、「老年期」のステージにおいては、「統合」と「絶望」という二つの内面世界の葛藤があり、その葛藤をバランス良く上手に克服して到達した、「総括的展望」としての「英知」の獲得が、この時期での重要な人生学的テーマになると言う。

「英知」とは、「深く物事の道理に通じる才知」であると言われるものだ。

この「英知」を確保することで、「驚くほどの復元力がある。予後は、希望的である」とエリクソンは説明した。

エリクソンによる精神分析の対象人格になったのは、イングマール・ベルイマン監督の「野いちご」の主人公のイサク・ボールイ博士である。

私は、この「英知」を「人生知」と呼んでいる。

「下らんことは山ほどおぼえている。そのときは毎日を生きていくために知っておかなければならないが、あとになったら何の役にも立たんようなことで、今でも頭の中はいっぱいだよ」

これは、三木卓の「野いばらの衣」(講談社刊)の中の言葉。

要するに、生活で不要になれば、それに代わる「知」によって補填されていく類の「知」について、「野いばらの衣」の登場人物は、「何の役にも立たんようなこと」と言っているのだ。

私は、それを「生活知」と呼んでいる。
この「生活知」と違って、「常に道理に通じる被写界深度を保持することで、人の心を枯渇させることのない知」こそ「人生知」である。

底抜けのオプチミズムで生きてきた人にも、思いも寄らぬ人生の危機が訪れる。

局面ごとの変化に翻弄され、あまりに不慣れな事態に危機が増強され、意志による決定的打開が困難になるかも知れぬ。

時間に震える自我の悶絶が中和し、でき得れば組織化した観念となって、危機に立ちはだかるような知が欲しい。

決定的な事態でこそ役に立つ知が、「人生知」であると言っていい。

「ハリーとトント」という映画を観ていて、主人公のハリー老人が開いて見せた生き方は、既知、或いは、未知なる他者に対するその包括的な優しさの中においても、凛とした姿勢・態度を崩すことのない表現様態そのものだった。

その表現様態を支え切る根幹に、彼の人格に内化された「英知」=「人生知」が太く根を張っていたことを感受した次第である。
 
まさに、ハリー老人の如き年輪の重ね方こそ、「老い」の日々の一つの理想形の発現ではないかと思った次第である。
 
 
(人生論的映画評論/ハリーとトント('74) ポール・マザースキー<「関係の達人」としての「英知」溢れる「人生の達人」>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/06/74_23.html