わが母の記(‘11)  原田眞人 <遺棄された、「不完全なるソフトランディング」という括りの潔さ>

イメージ 1 1  日本的な「アッパーミドル」に絞り込んだ、「古き良き日本の家族の原風景」を印象づける物語構成



 ファーストカットで、いきなり驚かされた小津映画のオマージュ(「浮草」)や、明らかに、そこもまた小津映画の影響を感じさせる、あまりに流暢で、澱みのない文学的な会話のテンポの良さに不自然さを感じつつも、丁寧な筆致で描かれた物語の総体としては良く仕上がっている作品だと思う。

特段に、観る者の情感に強く訴える狙い澄ましたなエピソード挿入や、「大鹿村騒動記」(2011年製作)のように、認知症を出しにするような狡猾さもなく、一家族内の限定された登場人物の中で紡がれる物語には、「家族」という小宇宙で飛び交う台詞の連射によって、登場人物の個性を埋没させない程度の「間」の絶妙の挿入のうちに、相対的な安定感を保持していて、そこで演じる俳優たちの表現力も抜きん出ていた。

その絡みの律動感には、本作の作り手の問題意識が垣間見えるであろう、小津映画がほぼそうだったように、日本的な「アッパーミドル」に絞り込んだ、「古き良き日本の家族の原風景」を印象づける物語構成には、後述するような由々しき一点を除けば、決定的な破綻が見られなかったと言える。

その意味で、一定の評価を与えるに相応しい、人間ドラマとしての一つの完成形を見ることができるだろう。

とりわけ、圧倒的な表現力によって、認知症の祖母を、まるで、その重篤な疾病に取り憑かれた者の如く演じ切った樹木希林と、主人公の小説家を演じた役所広司との迫真の演技のキャッチボールには、充分に見応えがあった。 

はっきり書けば、この二人の芸達者な表現力の抜きん出た凄みが、本作を支え切っていたと言っていい。

佳作だったというのが、私の正直な感懐である。



2  特化された家族の風景の変容を染め上げていく、物語の大団円の由々しき旋回点



ところで、私はシリアスドラマに対して、「展開のリアリズム」と「描写のリアリズム」を重視するので、必然的に心理学的アプローチという方法論に依拠して、映画と対峙する姿勢を保持しているつもりだ。

それをを以て、私が最も気になった物語構成の瑕疵への、どうしても看過し難い点を擯斥(ひんせき)できないので、本作の原作となった著名な小説と切れて、どこまでも一篇の映画作品として、以下、それについて言及していきたい。
 
私にとって看過し難かったのは、「母に捨てられた子供」という、由々しき自己像に関わる、主人公のトラウマの辺りについての一連の描写である。

これは、映画の基本骨格を成している問題なので、とうてい蔑ろにできないのである。

 こういうことだ。

 本作の主人公である、小説家の伊上洪作が、「母に捨てられた子供」という、由々しき自己像を一貫して持ち続けていた事実の重みは、拠って立つ自我の安寧の基盤を揺るがすものであるが故に、なぜ、認知症に罹患する以前に、母子会話を通して解決できなかったのかという素朴な疑問が、終始、私に取り憑いて離れなかったのである。

 洪作が、このことに拘泥するエピソードが、本作の随所に拾われていたが故にこそ、「母に捨てられた子供」という、由々しき自己像に関わる主人公の「心的外傷」の在りようが検証できるからである。

 例えば、以下のエピソード。

「熊は自分の子を可愛がって育てるけど、小熊が餌を求めるようになると、どうするか知ってるか」
「置き去りにする」
「木の上に置き去りにするんだよ。小熊は、木の上から下りる技術を身につけていないからね。親を追っていくことができない」

家族旅行の旅先で、ビリヤードをしながら、伊上洪作と、三女である琴子との会話である。

「木の上から下りる技術を身につけていない」幼児期の洪作にとって、豊かな感性を有する琴子の自我を捕捉するに足る、教訓的言辞であるという含みを持たせた、間接的な自己表現だった。
 
それは、この教訓的言辞が、何かと反発する琴子の感性の射程の中枢を、射抜いていく効果を持ち得ていくというエピソード挿入でもあった。

 或いは、家族旅行で宿泊したホテルのバーでの、酩酊状態の洪作と、彼の二人の妹との会話がある。

「お兄さん、変わった。そんな優しい顔して、お母さんの話しするの初めて」と志賀子。
「本質的に僕は許していないよ。僕は湯ヶ島に捨てられたんだ。だけど、相手が記憶を失くしたんじゃ、喧嘩にもならない」
「記憶が消えて、愛情が芽生えた」と桑子。下の妹である。

 一貫して権威的に振る舞う洪作の、この直截(ちょくさい)な表現は、「記憶が消えて、愛情が芽生えた」というユーモア含みの言辞によって、簡単に無化される類の「心的外傷」ではない現実を露わにするものだった。

 更に言えば、こんな母子会話があった。

湯ヶ島に預けたのが、一生の不覚だった」
「また、その話ですか」
「すぐに、引き取りに行けば良かったのに、私の健康がすぐれなかったし、一年後に迎えに行ったときは、もうダメだった」
「ダメって、大袈裟な」
「お前、湯ヶ島から出ようともしなかった」
「迎えになんか来なかったじゃないですか・・・僕は捨てられたも、同然でね。土蔵のお婆ちゃんは、母親代わりでしたからね」

 以上の会話は、母の八重が、認知症の初期症状に罹患した頃のこと。 

因みに、「土蔵のお婆ちゃん」とは、5歳のときから8年間もの長きにわたって、伊豆の山奥の土蔵で、洪作の養育をした曾祖父の妾・おぬいのことで、この経験が、洪作をして、「母に捨てられた子供」という由々しき自己像に繋がったのである。

ともあれ、この母子会話に見られるように、既に、この由々しきテーマに関わる会話が、この母子間でリピートされていたことを示している。
 
仮に、それが、ボタンの掛け違いによる誤解に起因していたとしても、このような会話が、それ以前から重ねられていたものであったことが充分に想定可能なので、今や、内深く封印したくとも噴き上がってしまうほどの洪作の拘泥感が、抑制困難な熱源の心理的推進力と化し、そのモメンタムを駆動させた延長上に、母に対してダイレクトに聞き質すことが可能であったはずである。

母親もまた、きちんと話せば、容易に息子の誤解を解けるものであるが故に、特段に自我防衛機制を張ることなく、普通に説明可能な状況性を確保し得たと考えるのが自然である。

だからこそ、解(ほど)けない糸が複雑に絡み合っている難しい話ではないので、その誤解を、数十年間にわたって延長させ続けてきた不自然さが、どうしても気になってしまうのだ。

しかし、この誤解の根っ子にある事情の解読には至らずとも、少なくとも、洪作の「心的外傷」を癒す程度において、結果的に解けるに至った。

「だけど、僕の一番好きなのは、地球のどこにもない、小さな新しい海峡。お母さんと渡る海峡」

これは、洪作の前で、洪作を認知できない八重が暗誦する、少年期に、洪作が書き留めていた詩の一節である。

そればかりでない。

既に酸化が著しい、洪作の詩が書き留められたその紙を、八重は大切に保管していたのである。

八重の暗誦を耳にする、功成り名遂げた作家の眼から涙が溢れてきて、男の情動の氾濫は、それを切に求める者のカタルシスを存分に得ることで、男の内側で何かが大きく動き、決定的に振れていく。
 
それが、物語の大団円の由々しき旋回点となって、特化された家族の風景の変容を鮮やかに、且つ、柔和なる色彩に染め上げていくのだ。
 
 
(人生論的映画評論・続/わが母の記(‘11)  原田眞人 <遺棄された、「不完全なるソフトランディング」という括りの潔さ> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/02/11_27.html