園子温 <行間を埋め潰していく情動過多な構図の連射の騒ぎようと、削り取られてしまったリアリズム>

イメージ 11   行間を埋め潰していく情動過多な構図の連射の騒ぎようと、削り取られてしまったリアリズム



「そこから逃避困難な厳しくも、辛い現実」

これが、「綺麗事」の反意語に関わる私の定義。

この作り手の映画を貫流していると思われる、物語の基本姿勢である。

その姿勢は理解できるが、但し、本作の物語の内実は、「辛い現実」を写し取るには、およそ相応しくない手法をフル稼働させる激情型アプローチだった。

だから、私の場合、相当程度、食傷気味になる。

冷たい熱帯魚」(2010年製作)の批評でも書いたが、この作り手は、「自分の描きたいイメージ」の全てを映像化しないと気が済まない性格の監督のように思われる。

 且つ、詩人としての意識がある分、「言語」に依拠し続ける傾向があり、「映像のみで勝負する」タイプの作家とも切れているようだ。

「総合芸術」でありながら、基本は「映像」それ自身である、当の「映像」の力を信じ切っていないのか、私には不分明である。

 「お前さえいなければな」

主人公の少年の愚かな父のこの言葉や、「ヴィヨン詩集」の中のフレーズに象徴されるように、リピートされる台詞や画像、そして、「俳句五七五ゲーム」を執拗に繋ぐなど、主役二人の少年少女の絡みの描写のくどさ・冗長さ。

 これが、編集段階において100分程度で済む映画を、130分の尺の長さにしてしまった要因である。

決して一見の価値もない駄作とまでは言わないが、正直言って、これには辟易した。
 
更に本作では、「冷たい熱帯魚」と、そこだけは違って、3.11大震災を背景に選択したこともあって、「展開予想外し」の技法を採らなかったものの、選択したテーマへの拘泥からか、肩に力が入り過ぎたように印象づけられ、その挙句、却って必要以上に情緒過多になり、「自分の描きたいイメージ」を、寸分でも空いた画面を埋め潰していくように、「これでもかっ!これでもかっ!」という具合に過剰に供給してくるので、「言外の情趣」も何もなく、観る者を疲弊させ切って閉じていくのである。

 少なくとも、私の感懐は、その類の印象のうちに集約される一篇だった。

「全体的に僕はこの映画に、今までの映画、僕の作り続けてきた映画とは明らかに変わっていかざるを得なかったという状況があったということです。僕は非常に、人間って言うのはこんなもんだよという絶望的な姿を丸裸にするような映画を撮り続けてはいたんですけども、それだけではもうやっていけないなというのが3.11以降の自分の映画のあり方で、それをやっぱり『ヒミズ』は自分の中の映画史、映画を作り続けてきた中で非常に転向したというか変わらざるをえなかったということです。それは1ついうと絶望していられない、へんな言い方で言うと希望に僕は負けたんです、絶望に勝ったというよりは希望に負けて希望を持たざるをえなくなった」(“希望に敗北した" 園子温監督「ヒミズ」を語る  NHK「かぶん」ブログNHK

 これは、園子温監督の言葉。

然るに、私から見れば、殆ど「借景」的に選択したとしか思われないテーマが抱える、主観的重量感への意気込みが空転して、そこで吐き出される言語が暴れ、物語のうちに特定的に切り取った、3.11大震災絡みのインモラルな構図が間断なく塗りたくられて、「震災に乗じた高利貸しのヤクザや、ネグレクトする親たち⇔『心優しき大人たち』」という、ボーダーの明瞭な「善悪二元論」の類型的な説教臭さえ漏れ出してしまうのである。

 「お前、死にたきゃ死ね。俺、ほんとにお前がいらねぇんだよ。ずーと昔から、ホラ、あそこの河でお前が溺れた時、死ねばよかったと思ったし、保険金、あれは入るしよ。しぶとく生きてんな、お前。ほんとに死にたきゃ死ね」
 
それによって決定的転機を迎えるシーンであるのが分っていても、物語の主人公の少年が、ここでも、うんざりするほどリピートされる、実父によって浴びせられた嘲罵である。 
 
 その結果、「世の中には、死んだ方が良い屑がいるんですよ」と漏らしていた対象人格の「父殺し」が具現し、その行為によって心に深い空洞感を抱え込んだ少年が、今や、ヒミズモグラへと変容することで、「普通であり続ける」という自己像を破壊するイメージを抱懐したまま、「非日常」の極点である〈死〉に最近接し、人生最後のステージで、自らを投げ入れるに足る価値ある行為を求めて、自分にとって一切がくすんだ風景にしか見えない街を彷徨するという、本作の肝の一つと言える長尺なシークエンスが開かれるのだ。

 要するに、「未来のある子供だけは救え」という、あまりに分り易い基幹メッセージを、「未来がありながら、親のネグレクトによって、悲惨なまでに不幸の現実を負っている、そこだけは映画的に特化された少年だけは救え」という、そこも分り易い文脈に変換させただけの演劇的な物語のうちに、遺棄されていく少年の悲哀を抉(えぐ)り出すことで、「自己埋葬から反転した再生譚」を、不必要なまでの暴力の氾濫と言語の洪水、そして、シンプルな象徴的絵柄のベタな提示によって、情動過多な構図の連射の騒ぎようの中に軟着させていくのである。
 
この作り手の強引な手法の留めは、少女が、少年の犯した殺人と死体遺棄について、「明日、(少年と)相談して、一緒に(自首しに)行きます」と警察に通報したにも拘らず、その警察が、自殺の危険性の高い「事件性」の濃度の深い案件を、単に聞き流しただけであったにしても、少女の意のままに待機するという設定に典型的に象徴されるように、物語総体の「展開のリアリズム」どころか、東北を地理的背景にしながら、登場人物が使用する言語が「共通語」(標準語のこと)である事実に見られる、「描写のリアリズム」までもが完全に削り取られてしまっていて、ただひたすら、「自分の描きたいイメージ」を念写し得るまで、行間を埋め潰していくのだ。

これで、私は駄目になった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ヒミズ(‘11)  園子温 <行間を埋め潰していく情動過多な構図の連射の騒ぎようと、削り取られてしまったリアリズム> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/02/11_19.html