実に厄介なる生物体 ―― その名は「人間」なり

イメージ 1未踏の、豊饒な満足感に充ちた快楽との出会いは、それを知らなかったら、それなりに相対的安定の秩序を保持したであろう日常性に、不必要な裂け目を作るばかりか、それがまるで、魅力の乏しいフラットな時間に過ぎないことを、わざわざ自我に認知させ、自らの手で日常性を食い千切っていく秩序破壊の律動は、しばしば激甚であり、革命的ですらあるだろう。

 そのアプローチの様態は様々だが、普通の人間ならその対象への一縷(いちる)の警戒感を捨てることなく近づいて、その甘い蜜の香りがやがて脳の快楽中枢を不断に刺激してしまえば、もう、その対象を擯斥(ひんせき)することが困難になるはずだ。

そして人は、その対象との絶対的距離をどこかで巧みに無化してしまうだろう。

距離を無化させた駆動力 ―― それを私は「快楽の落差」と 呼んでいる。

 自分が今まで味わったことのない種類の快楽と出会ってしまったとき、人はもうメロメロになっている。

勿論、快楽の感情は相対的だが、少なくとも、自らが至福と信じたものから離れてまでも、自分が今、手に入れた快楽の、殆ど暴力的な被浴が記憶に刻まれてしまったら、人はもう、それ以前の日常世界に戻れなくなってしまうのだ。
 
それが、「快楽の落差」の最も怖いところである。

 快楽に落差があるから、人は欲望に自分なりの価値付けをして、その感情の稜線を昇りつめていく。

「快楽の落差」が大きければ大きいほど、人がもう、それ以前の日常世界に帰れなくなってしまうのは、人の心理的文脈の自然な流れであると言っていい。

 厄介なのは、欲望を抑制すべき人間の自我が、そこで手に入れた快楽の被浴を脳の中枢が刺激されることで、既に肥大した欲望の文脈に少しずつ馴化してしまうことだ。

  更にもっと厄介なのは、その馴化の流れにひと通りの物語を張り付けてしまうことである。

こうして人は、知らず知らずの内に欲望の無限連鎖の世界に嵌っていき、そして、その速度に容易く順応してしまうのである。

この順応性は人間の文明を啓いた起動力になったが、同時に、多くの大切なものを喪失させてきた元凶でもあった。

 これほどまでに人は状況に順応し、その状況が垣間見せた欲望の対象に搦(から)め捕られてしまうのである。

もとより、「快楽の落差」の発生源は、対象に成り得る一切の事象と「比較」せねば落ち着かない私たち人間が、安寧の拠点を不断に求めて止まない自我の、ごく普通の営為であるが故に、常に自己の〈現在性〉の継続的で、安定的な〈生〉の在りようを確認することで、〈私の生〉を価値づけていく行程から解放できない心理的風景に淵源する。

対象に成り得る一切の事象と、「比較」せねば落ち着かない私たち人間の厄介な生態。

比べることは、比べられることである。

比べられることによって、人は目的的に動き、より高いレベルを目指していく。
 
これらは、人の生活領域のいずれかで、大なり小なり見られるものである。

 比べ、比べられることなくして、人の進化は具現しなかった。

共同体という心地よい観念は、比べ、比べられという観念が相対的に停滞していた時代の産物である。

 皆が均しく貧しかった人類史の心地良い閉塞が破られたとき、自分だけが幸福になるチャンスを与えられた者たちの大きなうねりが、後に続く者への強力なモチーフにリレーされ、産業社会の爆発的な創造を現出した。

 誰が悪いのでもない。

 眼の前に手に入りそうな快楽が近接してきたとき、人はもう動かずにはいられなくなる。

昨日までの快楽と比べ、隣の者の快楽と比べ、先行者との快楽と比べ、人は近代の輝きの中で、じっとしていられなくなった。

 比べられるものの質量が大きくなればなる程、人はへとへとになっていく。

それでも止められないのだ。

戻れないのだ。

 恐らく、それが人間だからである。
 
 
(新・心の風景  実に厄介なる生物体 ―― その名は「人間」なり)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/11/blog-post_15.html