恋愛ゲームの華麗な物語の残り火

イメージ 1恋愛を無邪気に語る者は、酔うことができる者である。

酔うことができる者は、酔わすことができると信じる者である。

人を酔わすと信じるから、語る者は語ることを捨てない者になる。

語ることを捨てないことによって、語り続けられることを信じる者になるのだ。

 ある意味で、「愛情」とは受け取る愛であり、「情愛」とは届ける愛である。

関係が成熟するとは、それらがバランスよくキャッチボールされたものである。

現代は、「情愛」より「愛情」の方に大きく振れている。

渡すよりも、貰う方ばかりが気になって仕方がないのだ。

 恋する相手の人格性から「日常性」と「身体性」を剥ぎ取ること ―― これが「恋愛幻想」の基本的イデオロギーである。
 
それ故、片思いの恋情を断ち切るために、私たちはしばしば、この手強い幻想破壊の世界に踏み込んでいく。

 
平中物語」という平安時代の作者不詳の古典の中に、片思いの相手を忘れるために、相手の大便を盗んで臭いを嗅いだというエピソードがある。

ところが、あろうこと か、その糞便が芳しき香水の臭いを放ち、ますます相手が忘れられなくなったという滑稽譚の落ちがついてしまった。

稀代の好色漢として名高い、主人公の平中(平貞文)にとって、真剣そのものの振舞いを笑うのも気が引けるが、この逸話が「恋愛幻想」の強(したた)かを象徴するものであることは否定しようがないだろう。

 ゲームとしての恋愛の醍醐味は、「恋愛幻想」を崩すことで自我の安定を図ろうとする、際立って人間学的な営為をも網羅して、常に変わらぬ人の世の、普遍的なる振舞いを検証し続けていくのであろうか。

 お互いの愛が確認されてからは、恋愛はピュアなゲームであることを止める。
 
スタンダールの言う、相手に対する感情が強化される、「第二の結晶作用」の始まりである。

 男と女の自我が、このリアルな時間の中で、一気に解放されてしまうのだ。

罵り合い、泣き叫びながらも、最後は肉欲の交歓によってあっさり鞘に収まってしまったりもする。

フーテンの寅さんが逃げ出した世界は、解放された裸の自我が直接的に交錯するダイナミズムの中で、揉(も)まれつつ成熟を果たしていく、 最も人間的な世界なのである。
 
 
 
(新・心の風景  恋愛ゲームの華麗な物語の残り火)より抜粋http://www.freezilx2g.com/