いつか晴れた日に('95) アン・リー <「ラストシーンのサプライズ」によって壊された映像の均衡感>

イメージ 1 1  「ラストシーンのサプライズ」によって壊された映像の均衡感



 「ラストシーンのサプライズ」に象徴されるように、観る者の感動をビジネス戦略で包括する、ハリウッド系ムービーの狡猾さがここでも露わになっていて、本作を「名画」と呼ぶには相当気が引けるが、それでも「ラストシーンのサプライズ」に至るまでの映像構成は、ほぼ完璧であった。

 エマ・トンプソン等の秀逸なシナリオを、常に心優しい視線を捨てないアン・リー監督が、グリーンヒルの緩やかな勾配の、英国の美しい自然描写を背景に、実に見事な人間ドラマに結実させた本作は、その瑕疵の少なさにおいて一定の評価に値すると言えるだろう。

 本作の基幹テーマは、個々の人生の局面に、しばしば劇薬のような影響を及ぼす「異性愛」のうちに、身分・財産(ジェントリー層内矛盾)という厄介な問題が濃密に絡んできて、それらのファクターが複雑に交叉する振幅の様態である。

 内的時間が風景を支配するときの重量感の中で浮遊し、迷い、立ち竦み、彷徨し、深々と懊悩する。

 様々に入り組んだ、それぞれの心が、それぞれの形を出し入れしながら一様に苦悩し、傷つき、潜り込み、被弾し、それぞれが錘(おもり)を背負いつつ、絡み合って流れていくのだ。

 まさに、「異性愛」に関わる関係の齟齬(そご)という普遍的な人間の問題を、その震えの脈動まで伝わってくるような鋭利な映像感覚によって、丁寧に描き切った一篇だった。
主要登場人物の一人一人が抱える「異性愛」が複雑に絡み合って、局面ごとに揺れ動く心が精緻に映し出されていて、それぞれの思惑や感情の乖離や擦れ違いなどによって、「思うようにならない人生」の様態がきちんと描けていたが故に、私には「ラストシーンのサプライズ」によって壊された映像の均衡感が残念でならなかったのである。

 「分別」(理性)と「多感」(感性)を、まるで数学的に二分したかのような姉妹と、3人の男が織り成す「異性愛」のゲームの中で、沸点と化した感情を声高に叫ぶ者も、相手の不実を糾弾する者もなく、柔和な色彩感によって捕捉された映像は、どこまでもゲームの前線で懊悩する者の心の奥にまで這い入っていく。


 這い入って、這い入って、辿り着いた心に、沈殿した不純物にまで差し込んだ光線が露わにしたのは、「人間は皆似たような地平で、似たような問題を抱え込んで悶え、呻吟する」という普遍的な文脈だった。

 これほど人の心の底に沈む澱を、俳優の表現力によって超絶的に結んだ映像は少ないだろう。
そう思わせるに足る作品だった。




 2  純度の高い「姉妹愛」の形に集約される作り手の人生観



 時代も階級も歴史的風土も、一切蹴飛ばすことによって見えてくるだろう、裸形の自我の個々の様態だけを純化したときのテーマ ―― それは「異性愛」の様々な形であると同時に、純度の高い「姉妹愛」の形だった。

 ここでは、その純度の高い「姉妹愛」について考えてみたい。
「分別」(理性)を象徴する長女は、一貫して自我の防衛機制が勝ち過ぎていた。

 自我を武装し過ぎるのである。

 自我を武装し過ぎなければならないものが、彼女の中に絶えず内在しているのだ。

 それは逆に言えば、防衛的に武装することによって、限りなく自我の裂傷を防ごうという意識の強さでもある。

 噴き上げていく感情を封印することによって守られるものが、その裸形の感情を噴き上げていくことによって手に入れる快楽を常に上回るのである。

 一方、「多感」(感性)を象徴する次女は、長女と異なって、自我の防衛機構のバリアが張り巡らされることが少ないキャラクターであった。
 
 彼女は、自我を非武装化し過ぎていたとも言える。

 それは、噴き上げていく感情を封印することによって失うものよりも、その裸形の感情を噴き上げていくことによって手に入れる快楽の方が大きいと考えているのだろう。

 ラストシーン近くで、一途に想う男の告白によって、堪え難く嗚咽した長女の感情噴出と、財産目当ての動機で「前線離脱」した男との「異性愛」の破綻によって、弾丸の雨に打たれながら刻んだ、次女の叫びというシークエンスこそ、「分別」と「多感」に二分された姉妹の性格を端的に表現したものだった。

 しかし、極端なまでに二分された姉妹の自我の様態の落差は、この姉妹の関係を対立的で、緊張感溢れるネガティブなものとして映像提示されていなかった。

寧ろ、二人の関係は補完的であり、相互扶助的であったと言える。

 それを象徴するシークエンスがあった。

 弾丸の雨に打たれたことで罹患した感染症によって、次女が重篤のベッドに伏しているシークエンスがそれである。

 「生きるのよ。死なないで。あなたが死んだら、どうすればいいの。どんなことでも我慢するわ。お願い、愛しているわ。一人で逝かないで・・・」

 付きっ切りで看病する長女は、嗚咽の中で言葉を結んだのである。

 彼女にとって、妹の存在は、或る意味で自分の分身であり、決して失ってはならない対象人格だった。

 それは同時に、次女のケースにも当て嵌まる決定的な何かだった。

 そんな心優しき姉への、次女の思いを結んだ忘れ難きシーンがあった。

 病が癒えて、自分を捨てた恋人と初めて会った湖に、姉を随伴していった際の会話である。

 「彼は心より、財布の方が大切だったのよ。私の半分も後悔しないわ」と次女。
 「あなたとは比べられないわ」と長女。
 「ええ。もっと辛い人がいるもの。姉さんよ」と次女。

 以上のシークエンスで確認できるのは、秀逸なストーリーテラーであるアン・リー監督の映像の中で、幾度となく強調される、「思いやり」のメンタリティの重要さであるだろう。
 
 
(人生論的映画評論/いつか晴れた日に('95) アン・リー <「ラストシーンのサプライズ」によって壊された映像の均衡感>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/10/95.html