1 「任侠ヤクザ」から「組織暴力」へのイメージ変換を決定的に成就させた映画
「弱気を助け、強きを挫く」というイメージを堅気の大衆にセールスする一方で、その内部で、疑似家族的な共同体のピラミッド型の階層構造を仮構し、「親分・子分」という関係で結ばれた、「義理・人情」を基本モチーフとする「任侠ヤクザ」の虚構の美学を根柢的に削り取って、シノギと面子に関わる確執によって、その権力関係内部の爛れ切った抗争の裸形の様態を、徹底したリアリズムで描き切った奇跡的な傑作。
「任侠ヤクザ」から「組織暴力」へのイメージ変換を決定的に成就させた映画 ―― それが「仁義なき戦い」だった。
即ち、「外圧に対しての自己抑圧」という、日本人が好きな「忠臣蔵」の世界の根柢にあった、「我慢劇」としての「任侠映画」(「日本侠客伝」に代表される、「情緒溢れる昔ながらの下町世界」を重視するマキノ雅弘の世界)が内包する、「世のため人のため」に闘う勧善懲悪型ヒーローの人格のうちに集中的に具現された、「任侠道」による「男の美学」という綺麗事の物語を擯斥(ひんせき)し、生き抜くための狡猾なエゴイズムや欲望を剥き出しにした、幻想としての「男の中の男」から、何より現実を投影する、「男の中の男でない男」を描くことへのイメージ変換だったということである。
だから、そこで描かれたアウトローのリアルな世界は、「組織暴力」の権力関係内部の裸形の様態が活写されることで、そこに集合する男たちの毒気に満ちた台詞の猥雑さと、人間本来の「滑稽な喜劇性」が炙り出されるに至ったのである。
その意味で、私は、この映画は、「男の美学」を拾い上げて成就したフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」(1972年製作)よりも、実話を元にして書かれ、まるで救いようのない「悪」を描き切った、マーティン・スコセッシ監督の「グッドフェローズ」(1990年製作)のイメージに近いと考えている。
刑務所で知り合った二人は意気投合し、「兄弟」の杯を交わすが、この関係には、「仁義あり」という「任侠道」のイメージのノスタルジックな臭気があった。
この二人だけは、物語を通して、極道の情感体系である「男の観念」を象徴する魅力溢れる人物として描かれていたのである。
しかし、刑務所を保釈で出るために、自らの腹を掻き切ってしまう若杉の人格イメージや、山守組を守るために、敵対勢力の組長(土居)を暗殺することを請け負った広能が、殺しの前に女の裸を貪ることで、不安含みの感情を激しい欲望で処理する人格イメージは、明らかに、「任侠映画」の奇麗事の世界とは無縁だった。
「あとがないんじゃ」
女の肌を攻撃的に貪る広能の台詞である。
この台詞が内包するのは、自ら暗殺を請け負ったときの、「任侠道」の中枢を占有すると信じる、綺麗事で塗りたくった「男の観念」と切れたことを示す極道人生のリアリズムである。
彼らの「任侠道」もまた、悪者退治をするまで「我慢劇」を求められた、ストイックな勧善懲悪型ヒーローと切れていたのだ。
彼らは、揃いも揃って、我慢することをしないのである。
それ故、この映画から、虚構としての「任侠道」を拾うことは不可能なのだ。
それだけのことである。
それだけのことだが、「組織暴力」の凄惨な内部抗争のリアリズムの世界に踏み込んでいくという、この種の映画の不在の負の軌跡こそが、快調なテンポで物語を駆動させていった、ドキュメンタリーと思しき生々しい描写で繋ぐ本作の出現によって炙り出されてしまったのである。
そして、「滑稽な喜劇性」を象徴するエピソードもまた、極道人生のリアリズムを鮮烈に照射させていたので、その種の典型的なシーンを紹介しておこう。
「わしゃぁ、死ぬゆうて問題じゃないが、女房がの、腹に子がおって、これからのことを思うっとったら、可哀想で、可哀想で・・・」
そう言って、泣きじゃくるのだ。
その場にいた誰もが、槙原の演技を見透かしているが、自己防衛に必死な幹部連中は、槙原を臆病者扱いできる道理がない。
まさに、極道人生のリアリズムを切り取れば、「滑稽な喜劇性」をも切り取ってしまうことを、このエピソードは象徴しているのである。
地方政治を巧みに利用し、発足まもない山守組の構成員たる、血気溢れる多くの若者たちを翻弄し、使嗾(しそう)した挙句、「一人天下」を狙うことのみに執心した男、それが山守であった。
無慈悲、傲慢、厚顔、貪欲、吝嗇、裏切り、狭隘、枉惑(おうわく)、不義・不正、殺人教唆、虚偽、無恥、恫喝、居直り、狡猾、臆病、等々、極道と言わず、人間の持ち得る「悪徳」の全てを集中的に体現させた男こそ、この山守だった。
一見、アウトローに見えながら、その実、最も体制的で、極端なまでに我欲の強い男として描かれていた件の男の存在こそが、戦前から貫流し、戦後にレジームチェンジしても、その根柢において何も変わらない、この国の「悪」の元凶と言わんばかりに、思い切り否定的に描き切ったのである。
深作・笠原のコンビは、モデルらしき男の存在如何に関わらず、彼らが共有するであろう反体制的な憤怒の情動を、そこで特化され、仮構されたケチな男の生き様に対して、叩きつけるように激しく撃ち抜いたのだ。
そんなケチな男によって翻弄された極道たちが内部抗争し、「そして誰もいなくなる」という状況を目の当たりにしたとき、山守組若衆頭であった坂井鉄也(松方弘樹)が、かつての盟友・広能に吐露した言葉が印象的に想起される。
「昌三。わしらはどこで道間違えたんかのぉ。夜中に酒飲んどると、つくづく極道が嫌になってのぉ、足を洗ちゃろか思うんじゃ・・・朝起きて若いもんに囲まれちょると、夜中のことはころーと忘れてしまうんじゃ」
まさに、この言葉にこそ、自業自得とは言え、ケチな男によって存分に翻弄され、軟着点を持ち得ない辺りにまで流されていった極道人生の、自縄自縛のトラップに嵌り込んだ陥穽から抜け切れない、寒々しい内的風景の踠(もが)きが垣間見える。
大組織に化けていった極道集団の内輪同士の、その不毛な抗争で厭世的になった男の思いを吐露し、相当に重量感があるのだ。
「最後じゃけん、言うとったるがよ、狙われるもんより、狙うもんの方が強いんじゃ、そがな考えしとると隙ができるど」
これが広能の反応。
これも相当に重量感がある。
弱気になった極道には隙ができる。
隙ができれば、抗争の渦中にある極道には、精神的に非武装の状態を露呈する。
それは、凄惨な内部抗争の渦中で犬死する以外に、終焉し得ない極道人生の抑制の効かない崩れ方を予約してしまうだろう。
この映画で抉り出した、悪しき「組織暴力」の爛れ切った風景がそこにあった。
(人生論的映画評論・続/仁義なき戦い(‘73) 深作欣二<「任侠ヤクザ」から「組織暴力」へのイメージ変換を決定的に成就させた映画>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/05/73.html