1 観る者の視覚に強烈に鏤刻する名画の圧倒的な切れ味
これまで観た多くの映画の中で、初見時に、言葉に言い表せないほどの感動と鮮烈なインパクトを受けた作品の一つ。
後にも先にも、これほどの独特な筆致で描かれた作品と出会った記憶はない。
ジャコ・ヴァン・ドルマルという、ベルギー出身の監督の名前は、その日のうちに覚え、一生忘れない映像作家として、私の脳裏に刻まれている。
その後、再見しようと思ったが叶わず、殆ど諦めていたが、偶然、DVDが出ていることを知って、やっと再鑑賞することができた。
変わらなかった。
いや、それ以上に、これほどまでに完璧に構成されている映画であることを再確認させられ、まさに「映像」と呼ぶに相応しい逸品であった。
「障害者のタブー」に挑戦したかのような「八日目」(1996年製作)も出色だったが、私にとって、やはりこの「トト・ザ・ヒーロー」。
「空を飛んでるぞ。アルフレッド、ここだよ」
すでに遺灰と化して、空から撒かれていくトマ老人が、哄笑しながら独言するラストシーンの構図の切れ味は、説明的な活字なしに済まない文学と切れて、映像それ自身の独壇場の世界だった。
心に凝固していた一切の思いを浄化し、大地に溶融していくトマ老人の遺灰が、別の生命のうちに吸収されていくのだ。
軽快なテンポで流れる歌の訴求力は、サーカス出身のドルマル監督の才能が見事に表現されていて、観る者の視覚に強烈に鏤刻(るこく)する。
その圧倒的な切れ味に溜息が出るほどだった。
無駄な説明的台詞が一切なく、映像のみで繋ぐ物語の展開はテンポが良く、抑揚の効いたBGMの効果も抜きん出て、感傷的なカットを全く引き摺らないから、僅か90分で、これだけの完成度の高い映像に仕上がったのだろう。
偶然性に依拠し続ける展開に些か閉口するが、それなしに済まないテーマ性を持つ映画として、綿密に構築された映画であるという視座で包括することで、充分に軟着し得る作品でもあった。
なぜなら、この映画に詰まっているテーマが、「人生とは何か」という一点に収斂されるからである。
2 幼い自我が被弾した凄惨な現実を転嫁して繋ぐ人生の陰翳感
「君を殺すぞ、アルフレッド。これは殺人ではない。私が生れた日に、君が奪ったものを返してもらう。私の人生を。泥棒め!君は、私の人生と愛を奪った。お陰で、私の人生は空っぽ」
ファーストシーンでの、老人トマのモノローグである。
老人ホームで余生を過ごしているトマには、幼少時から信じ切っている妄想がある。
出産の際の火災で、隣家のカント家のアルフレッドと誤って取り替えられてしまったという妄想だが、「自分は、この家の子ではないのではないか」という思いを持つ現象は特段に異常な事態ではないので、通常、このような思い込みは、時の経過と共に雲散霧消していくもの。
ところが、トマの場合は様子が違っていた。
アルフレッドが裕福に暮らす生活風景に対する羨望感があるだけなら問題なかったが、カント家への恨みが媒介される事態の出来によって、トマの羨望感が無化されたばかりか、そこに、アルフレッド自身への否定的な個人的感情が累加され、それが軟着し得ない辺りにまで膨張してしまったことで、「君は、私の人生と愛を奪った」という思いを、老年期に至ってまでも延長されてしまったのである。
ここで言う「私の人生と愛」とは、父と姉の死、更に、中年期での恋の破綻に象徴される、アルフレッド絡みの不幸のトラウマである。
パイロットの父が、カント氏の依頼で英国ジャムの運搬のため、雷雨の夜に飛行したことで遭難死してしまった不幸は、明るいトマの家庭を根柢から崩していく。
この一件で、カント家への復讐を誓うトマと、その姉のアリス。
カント氏が経営するスーパーに放火し、ボヤ騒ぎで終わったアリスは、今度はカント家をガソリンで燃やし尽くすと言い切った。
しかし、スーパーに放火した張本人であるアリスは、肝心のカント家の息子・アルフレッドと、思春期前期の純愛模様への変化を見せていくのだ。
姉のアリスに、この時期の男児に往々に見られるように、異性感情との境界が見えにくい思いを抱くトマは、普段から「チキンスープ」とからかわれていた反発も手伝って、激しい嫉妬感から、アリスにカント家への復讐の誓いを執拗に迫っていく。
その結果、アリスは、可愛い弟との誓いを果たすために、カント家にガソリンで火をつけ、自らも焼死してしまったのである。
信じ難き不幸の連鎖が、児童期中期のトマの心を凍結させてしまう。
とりわけ、アリスをアルフレッドに奪われた挙句、焼死してしまうという記憶は、永遠に消えないトマの由々しきトラウマと化し、児童期の幼い自我に刻印され、一生を左右する「妖怪」にまで膨張していった。
テレビ番組の格好いい名探偵・トトへの同化によって、アルフレッドを中枢にしたカント家への復讐を遂行する幻想が、いつしか、辛すぎる現実逃避の防衛戦略を突き抜けて、「アルフレッド殺し」のスーパーマンへと同化していく。
だが、トマの場合は、姉アリスとの血縁を否定するから、その特殊な時間が延長されても、異性感情としての稜線が延ばされる可能性が高かったのである。
「僕がアリスを殺してしまったんだ」
この意識を封印しなければ、トマは生きていけなくなるのだ。
だから、一切の責任をアルフレッドに転嫁せねばならなかった。
都合のいい方略だが、幼い自我が被弾した凄惨な現実を、そのまま受け止めてしまったら、トマの人格の骨格は根柢から自壊してしまうだろう。
嫉妬とは、「独占感情の喪失への恐怖」である。
アリスを独占したいというトマの嫉妬が、アリスの死に繋がったことで、アルフレッドへの恨みに都合良く変換されていくのだ。
しかし、それでも張り付くトラウマが、トマの一生を支配してしまうのである。
ここで見落としてはならないのは、アリスの死に被弾したのがトマだけではなかったという事実である。
アリスに思いを抱いたアルフレッドもまた、アリスの死を受容できなかったのだ。
だから、彼もまた、アリスの幻影を追い駆けてしまうのである。
それが、中年期のトマに二重の被弾となって、重くのしかかっていく。
そして、トマのその特殊な時間が、アリスの死によって凍結されることで、アリスへの「永遠の愛情」となって無限に延長されてしまうのだ。
「永遠の愛情」と化した姉への思いは、トマの自我の奥深くで生きていく。
生きていくから、現実の〈生〉の中で、姉が残した蠱惑(こわく)的な芳香を求めてしまうのである。
アリスこそ、この物語を支配し、動かしている最も重要な存在なのである。
その現実の重量感は、二人が中年期に入って証明されることになる。
トマの自我の奥深くで生きている、その「永遠の愛情」が、中年期に入って、音楽家エヴリーヌとの出会いとなったが、しかし、アリスと似た愛情対象を追い続けるトマにとって、彼女は、アリスの再来(復活)でなければならなかった。
当然、これも妄想である。
本人だけがエヴリーヌ=アリスと決めつけているだけで、ダウン症の弟・セレスタンは「似ていない」と一蹴する。
そんなトマに、信じ難い衝撃が襲う。
エヴリーヌと愛し合い、駆け落ちまで約束したのに、エヴリーヌと行き違いになった事実を知ることなく、裏切られたと思い込み、意を決して、彼女の自宅を訪ねたトマは、彼女の夫がアルフレッドである事実を目の当たりにして、失いたくない大人の恋が根柢から崩壊し、決定的に打ち拉(ひし)がれる。
打ち拉がれた男は、自暴自棄になって、列車内で禁煙を注意した男に暴行を加えるのだ。
しかし、アリスの死によって心が凍結されたのは、アルフレッドも同様だった。
トマもアルフレッドも、共にアリスの幻影を追い駆けていたのである。
(人生論的映画評論・続/トト・ザ・ヒーロー(‘91) ジャコ・ヴァン・ドルマル <人生の行程で起こり得る多くのものが詰まった、反転的な「人生賛歌」のメッセージ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/04/91.html