ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(‘07)  ポール・トーマス・アンダーソン<「絶対個人主義」というルールで駆け抜けた孤高の男の、その収束点の陰翳感>

イメージ 11  剥き出しの大地にへばり付き、穿っていく男の強烈なる個我の裸形の風景
 
 
 
 風荒(すさ)ぶ荒野の一角で、一人の男が鶴嘴(つるはし)を振るっている。
 
夜になり、男は野営する。
 
 その直後の映像は、小さな暗い穴の立坑で、右手に槌(つち)、左手に鑿(のみ)を駆使して、金鉱を掘削しているカット。
 
 炎天下に出て来て、自ら仕掛けた発破(はっぱ)が、穴の中に残した鉱具をロープで引き上げる前に爆発してしまった。
 
再び、暗い穴の中
 
自ら作った梯子を降り始めたとき、梯子が折れて、そのまま落下してしまった。
 
爆発による炸裂で、階段の劣化が激しくなっていたのである。
 
背中を強打して、暗い穴の底で激痛に悶えていた。
 
そんな凄惨な状況下で、骨折した左足を引き摺りながら、一人で懸命に移動する。
 
「やったぞ」
 
男は一塊りの金の原石を掴んで、再び、炎天下の地上に出て来た。
 
思うように動かない体を、仰向けの姿勢で這っていくのだ。
 
男の心の風景を表現するように、BGMの無機質な機械音が異様に響き渡り、提示されたインパクトの強い画像を追い駆けていく。
 
荒涼とした大地を這っていった男は、金の原石を町の鑑定所に持って行き、分析結果を待つ。
 
342ドル。
 
これが、男が手にした戦利品の全てだった。
 
男の名は、ダニエル・プレインビュー(以下、ダニエル)。
 
冷徹なカメラは一定の距離感を保持し、一貫して客観的に、ゴールドラッシュの時代の終焉下での男の仕事捕捉するだけだった。
 
この冒頭のシーンが、この映画のエッセンスを表現していると言っていい。
 
 そこで提示された画像から見えてきたもの ―― それは、自力で作った男の仕事場で、命を懸けて仕事に打ち込み、その報酬を手に入れたという現実である。
 
一攫千金を求め、その原始的な達成動機を推進力にして、剥き出しの大地にへばり付き、穿っていく男の強烈なる個我の裸形の風景。
 
それが冒頭のシーンで、観る者に鮮烈に印象づけるイメージだった。
 
何より、たった一人で、命を懸けてまで遂行する男の生きざまが、この映画を貫流しているのだ。
 
 
1898年のことである。
 
 
 
2  “石油屋”の複雑な心の風景の裸形の騒ぎ方 ―― 梗概①
 
 
 
ニューメキシコ州での金鉱掘削から時を経て、カリフォルニアの荒涼とした大地で、ダニエルは石油の採掘に全人格を懸けていた。
 
 劣悪な環境下での採掘仲間の事故死によって、ダニエルは仲間の乳児を引き取り、「子連れの石油屋」として、全幅の信頼を寄せるフレッチャーと共に、有力な油脈を求めて彷徨していた。
 
乳児の名はHW
 
1902年のことだった。
 
それから9年後の1911年。
 
 ダニエルが、サンデー牧場の石油を知ったのは、サンデー家のポール青年の訪問を受け、有力な情報を得たからだった。
 
 穀物栽培すら困難な不毛の土地であるが、莫大な油脈があると断言するポールの言葉を信じ、なお半信半疑ながらも、早速、ダニエルは、サンデー家の牧場の所在地・リトル・ボストンに向かった。
 
 牧場で山羊を飼う、貧しいサンデー家の父と、ポールの双子の兄イーライと交渉したダニエルは、採掘権を買うに至った。
 
その間、今や、少年期に入ったHWは、父のダニエルから、自立的で、充分な養育を繋いでいて、野営のための狩猟をし、ウズラを獲るほどの貴重な戦力となっていた。
 
採掘権を買うや、油脈の存在を確信したダニエルは事業の仲間をリトル・ボストンに集合させ、本格的に試掘の準備を整えていく。
 
油井の建造を進める一方、リトル・ボストンの村民の土地を次々に買収するが、入植法で土地を得て、孫と暮らすバンディだけが買収に応じなかった。
 
村の集会所に集まった村民たちを前に、自分を“山師”ではなく、“石油屋”であることを繰り返し強調する、ダニエルのスピーチが狭いスポットに響き渡る。
 
 「井戸を掘りましょう。井戸によって灌漑し、栽培できます。不可能だった作物を育てるのです。多くの穀物が手に入り、有り余るパンとなります。新しい道路、農業、雇用、教育。これらは、ごく一部です。保証します。もし、石油を見つけたら。きっと見つかるはずです。皆さんの町は生き残り、豊かに繁栄するのです」
 
これを、“山師”の籠絡と決めつけてしまうのは穿った見方と言えるだろう。
 
自分の仕事に誇りを持つダニエルは、石油の採掘に成就すれば、町の再生が可能であると本気で考えているのだ。
 
更に、イーライの質問に答えて、教会への5000 ドルの寄付を約束するダニエル。
 
福音派伝道師(牧師)としてのイーライが主催する、聖霊派系の「第三の啓示教会」の拠点になっている小さな教会で、「悪魔払い」のような儀式を見せつけられ、「すごいショーだった」と、イーライに向かって揶揄するダニエル。
 
 頑固なまでに無神論者のダニエルの観念系の世界は、「資本の論理」で動く男には邪魔なだけなのだろう。
 
その構図において、自分の力のみを信じ、命を懸けて仕事に打ち込み、その報酬を手に入れていくという、冒頭のシーンで提示された映像を想起すれば、一切の宗教を信じない男と、汗水流して労働せずに、「悪魔払い」のような、カルト紛いの信仰によって村人たちとのコミュニティを形成する若者との決定的な乖離が顕在化していた。
 
アメリカには、この頃、「聖霊バプテスマ」を受けた結果、忘我状態に陥ってしまう信者が頻発した、「ペンテコステ教会」という名の、原始キリスト教的な布教運動を活発に展開する福音派系の集団が有名だが、「癒し」や「奇跡」を売り物にするイーライの観念系のみを切り取れば、その種のイメージを被せることも可能である。
 
一方、油井やぐらの建造を経て本格的な採掘が始動するが、ガスの噴出によって、油井やぐらが爆発炎上事故を起こしたことで、爆風に吹き飛ばされたHWの聴力が奪われる惨事が出来する。
 
この辺りから、物語の風景は人間ドラマの陰翳感を深めていく。
 
大袈裟に言えば、HWの被弾で、ダニエルには、脳血管性認知症に特異的な症状である「情動失禁」(情動のコントロール不全)にも似た行動傾向が見られるが、そこで貯留された憤怒が偽善的なイーライに向かって炸裂するのは不可避だった。
 
「いつ、金をくれる」
 
教会への寄付の約束を履行しないダニエルへ、イーライの要求が突きつけられた。
 
「癒し」や「奇跡」を売り物にして、「悩める者」を救うはずのイーライが、金銭の請求にのみ拘泥し、HWの容態に無頓着で、見舞いにも来ない態度を目の当たりにしたダニエルの憤怒が炸裂するのだ。
 
イーライの頬を繰り返し強打し、叩き伏せ、コントロールが不全化した情動を言葉に結ぶ。
 
「お前は治癒師で、精霊の”宿主”だろ?いつ、息子の耳を治しに来る?」
 
それでも、ダニエルの怒りは容易に収まらない。
 
泥水の上にイーライを叩き伏せたダニエルは、その顔に泥水をかけ、原油のような黒を塗りたくるのだ。
 
「お前を亡き者にしてやる。葬り去ってやる」
 
ダニエルの暴行の心理的背景にあるのは、紛れもなく、聖霊の働き「奇跡」を具現するスポットである、表面的には立派なだけの体裁を保持する教会に象徴される、イーライの偽善・欺瞞性に対する激し怒りである。
 
イーライの顔に泥水をかけ、それを塗りたくる行為こそは、冒頭のシーンで象徴的に描かれたように、大地に塗れ、命を懸けて労働することに、一頭地を抜いて誇りを持つ男の情動が、「神」への信仰という名で、自分たちが住む痩せた土地を開墾することもなく、偽善的な言動を許容する地域コミュニティの精神風土に寄生する偽善者に対して、危険性の伴う仕事に挺身する者の生きざまを刷り込んでいくシンボライゼーションであった。
 
「神は愚か者は救わない」
 
凄い言葉である。
 
イーライの実父に対して、「悩める者」を救うはずのイーライが放った言葉である。
 
泥水で汚れた顔を拭うこともせず、その屈辱感を露わにしたイーライは、ダニエルに土地を売った父に、信じ難い言葉を吐き、「八つ裂きにしてやる!愚か者め!」とまで愚弄し、殴りかかっていくのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(‘07)  ポール・トーマス・アンダーソン<「絶対個人主義」というルールで駆け抜けた孤高の男の、その収束点の陰翳感>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/05/07.html