黄昏(‘81) マーク・ライデル<残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 「統合」と「絶望」との葛藤を昇華するもの>

イメージ 11  「お前は老年で、わしは化石だ」
 
 
 
西の地平線に赤く染まる空の黄昏の輝きが、観る者の視神経に残像を張り付けて、まるで深い睡りに誘われていく者の呼吸音の律動で、静かに消えていく。
 
一幅の絵画のような湖の素晴らしい光景が、全篇にわたって鮮やかに映えていた。
 
しかし、その黄昏の輝きが、呼吸音の律動が日々に衰弱していく者の、未だ燃え尽きることがない老境の残り火を、情景的にシンボライズした形象であることを知るとき、映像の美しさの眩い輝きは、時として酷薄ですらあるだろう。
 
ヘンリー・フォンダキャサリン・ヘプバーンが初共演を果たし、世間の耳目を集めた映画「黄昏」は、夫婦愛と親子の和解という表層的テーマのうちに、死の意識から免れ得ない老境の日々の酷薄な内的風景を隠し込み、年を経て「感性価値」(感動・共感する価値)が分り得る作品に仕上がっていた。
 
―― 以下、物語を追っていく。
 
ニューイングランドのゴールデン・ポンドの湖畔の別荘に、引退してまもない大学教授・ノーマン・セイヤー(以下、ノーマン)と妻エセルが、今年も避暑のためにやって来た。
 
「小鳥はさえずり、木々は芽吹いている。穴蔵の傍に花も咲いていたわ。名前は忘れたけど、小さな黄色い花」
 
老年期になっても矍鑠(かくしゃく)としているエセルの健康感覚が、手に取るように分る言葉である。
 
「お前は老年で、わしは化石だ」
 
そんな妻エセルが、中年期のカップルを森で見たという話に、ノーマンは皮肉を言うだけだった。
 
「あなたは、まだ70代。私だって60代よ」
「かろうじて」
「そうやって、屁理屈を続けるつもり?」
「望むなら」
「あきれた」
 
こんな調子だった。
 
以下、そんな頑固なノーマンの心情が弾ける啖呵が拾われていた。
 
ボートの給油所の若者にからかわれたときのこと。
 
「年寄りを笑うのか?体は衰えたとは言え、お前らのような若造には、まだ負けないぞ!」
 
このノーマンの炸裂はエセルに中断されてしまったが、その本質は、老年期の衰弱を意識する70代の引退教授の隠し込まれた心情であると言っていい。
 
それは、新聞の求人欄を見て、運転手、庭仕事、そしてアイスクリームの販売など、今の自分ができる仕事を探すパフォーマンスに象徴されていた。
 
「バカを言わないで。一体、どうしちゃったの」
 
このエセルの言葉が、夫の心情を見透かしていた。
 
だからノーマンは、イチゴ摘みに出かけることになった。
 
ところが、勝手知ったるはずの、我が家の別荘を囲繞する深い森の中で迷い、途方に暮れる老人の惨めさが曝されていた。
 
結局、一つのイチゴも採れないで帰宅したノーマンは、「途中で食べた」などと言って誤魔化すばかり。
 
しかし、女房にからかわれた悔しさで、ノーマンは、自分の惨めな体験を妻に向かって炸裂する。
 
「旧道まで出られなかったんだ。見覚えのある木が、辺りに一本もない。恐ろしくて。だから、お前の元へ逃げ帰ったんだ。お前の顔を見れば、混乱が収まるから・・・」
 
夫の本心を耳にして、いつものように優しく労(いた)わるエセル。
 
「混乱しなくていいの。毒舌も冴えてたでしょ。あとで、お昼にイチゴを食べちゃったら、旧道まで行きましょう。何千回も行ってるのよ。道だって、きっと思い出す。あなたは私にとって、輝ける頼もしい騎士よ。馬の上で、あなたの背中にしがみつくわね。二人で、どこまでも行きましょう」
 
このシーンは、ゴールデン・ポンドの湖を睦まじく泳ぐ番(つが)いのアビの、その形象性を濃密に伝えている。
 
そのアビと話すことを喜びとするエセルは、道に迷ったノーマンの話を聞いて以来、少しずつ、しかし確実に認知の障害を惹起させている夫の現実を知るに至る。
 
長く疎遠になっていた娘のチェルシーが、歯科医の恋人のビルと、彼の息子のビリーを随伴し、湖畔の別荘を訪ねて来たのは、ノーマンの80歳の誕生日のその日だった。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/黄昏(‘81) マーク・ライデル<残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 「統合」と「絶望」との葛藤を昇華するもの>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/12/81.html