残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 映画「黄昏」が提示したもの

イメージ 1老いは残酷である。
 
加齢(エイジング)に起因する不可逆的な全身機能の低下である「老化」にも拘らず、妻ジョウンによって加筆された、エリク・H・エリクソンのライフサイクルの第9段階のテーマとされる、長寿の渦中にあっても、主観的幸福感に包まれる「老年的超越の獲得」という、神秘的なステージが待機する「お伽噺」の世界を信じられる人は、既に、イメージのみで丸ごと幸福な老境を手に入れられるだろう。
 
それでもなお、私たちは、個体の生存期間である「生理的寿命」(限界寿命)を超克する術を持ち得ない。
 
否が応でも、体力、気力、知力の劣化を意識することで、老年期には、「老化」という観念に集合するネガティブな情報が纏(まと)わり付く。
 
老年期における「同調的性向」が「統合」であるのに対し、「非同調的性向」が「絶望」であるとされる。
 
即ち、老年期とは、「統合」と「絶望」という対立命題の葛藤から、「英知」という「希望」によって昇華していくに足る内的過程の風景の様態であると、エリクソンは説明する。
 
では、ここで言う「統合」と「絶望」との葛藤とは何か。
 
人生の軌跡を振り返り、自分が価値ある存在であったか否かを総括するとき、もはや、人生をやり直すことができない現実を目の当たりにして、自分にとって、老年期の受容が困難な内的風景を曝してしまえば、それが「絶望」を分娩する。
 
然るに、「絶望」を分娩することなく、自分の人生の心地良さも心地悪さも、肯定的に受容し得るような境地に達することが可能ならば、それが「統合」を具現する。
 
即ち、己が人生の総体を受容する内的営為こそ、畳み掛けるように老年期に襲いかかってくる、「統合」と「絶望」という深刻な葛藤を昇華する。
 
そして、その深刻な葛藤を昇華するキーワードが、「英知」という概念に収斂されると言うのだ。
 
では、「英知」とは、一体、何だろうか。
 
「英知」について考えるとき、イギリスの心理学者・レイモンド・キャッテルの言う、「結晶性知能」という重要な概念が想起される。
 
記銘力に象徴される新しい環境に適応する知能である「流動性知能」が、「経年劣化」していくのに対して、人生経験で得た知識や知恵、判断能力の集合体である「結晶性知能」は、「経年劣化」することがないのである。
 
そこに救いがある。
 
老年期に踏み込んでも、低下することがない「結晶性知能」のパワーこそ、「統合」と「絶望」という深刻な葛藤を昇華する「英知」という概念の本質ではないのか。
 
不可逆的な全身機能の低下である、「老化」という観念に集合するネガティブな情報に必要以上に呪縛されず、「絶望」への「急速強化」の下降を水際で防ぎ、自分の人生の心地良さも心地悪さも、肯定的に受容し得る「統合」を具現する。
 
もし、この艱難(かんなん)な作業に頓挫することなく、「結晶性知能」のパワーを心理的推進力に変換できれば、「老年的超越の獲得」という「お伽噺」に身を委ねる術(すべ)もないだろう。
 
―― ここで、「黄昏」の主人公である頑迷固陋(がんめいころう)なノーマンの、その老年期の様態について考えてみたい。
 
以下、映画「黄昏」の簡単な梗概。
 
ニューイングランドのゴールデン・ポンドの湖畔の別荘に、引退してまもない大学教授・ノーマンと妻エセルが、今年も避暑のためにやって来た。
 
「お前は老年で、わしは化石だ」
 
そんなことを言うノーマンがイチゴ摘みに出かけながら、我が家の別荘を囲繞する深い森の中で迷い、途方に暮れるというエピソードは、「化石だ」と言うノーマンの老境の厳しさを伝えていた。
 
「混乱しなくていいの。毒舌も冴えてたでしょ。あとで、お昼にイチゴを食べちゃったら、旧道まで行きましょう。何千回も行ってるのよ。道だって、きっと思い出す。あなたは私にとって、輝ける頼もしい騎士よ。馬の上で、あなたの背中にしがみつくわね。二人で、どこまでも行きましょう」
 
常に夫に寄り添う、頼もしき妻エセルの言葉である。
 
長く疎遠になっていた娘のチェルシーが、歯科医の恋人のビルと、彼の息子のビリーを随伴し、湖畔の別荘を訪ねて来たのは、ノーマンの80歳の誕生日のその日だった。
 
 
 
(新・心の風景 残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 映画「黄昏」が提示したもの)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2014/12/blog-post.html