私の、息子(‘13) カリン・ピーター・ネッツァー <〈状況〉を開き、その〈状況〉の中枢点に自己投入する「胎児」の「恐怖突入」の物語>

イメージ 1

1  階級的特権が優位に、且つ効果的に機能し、温存されている社会の中枢で起こった交通事故
 
 
 
凄い映画を観た。
 
余計な描写を切り取ったラストシーンに震えが走った。
 
全てとは言わないが、説明セリフを捨てられるヨーロッパ映画の厳しさを観せられると、徹底したリアリズムから逃げ、情緒過多な多くの邦画を観る気が失せる。
 
〈状況〉と心理を深々と描き切るか否か、そこで分れてしまうのだ。
 
こういう映画と出会うために、私はこれからも映画を観る。
 
―― 以下、梗概と批評。
 
「あの女と一緒になってから、息子は彼女の言いなり。送り迎えも買い物も。息子を尻に敷いてるの」
「コルネリア、それが人生なのよ。だから、子供は二人作れと言ったのに」
「私たちの世代は絶滅すべきだそうよ」
 
ルーマニアの首都・ブカレストに住む舞台美術家のコルネリアが、自分の誕生日パーティーだと言うのに、肝心の息子・バルブが恋人・カルメンにうつつを抜かし、訪ねて来ないことに腹を立て、義妹の女医・オルガを相手にストレスを発散している会話から、冒頭のシーンが開かれる
 
そのバルブがアウディを運転中、一人の少年を撥(は)ねて、死なせてしまうという交通事故を起こした事実を、そのオルガから聞いたのは、コルネリアがオペラを観劇しているときだった。
 
早速、オルガの運転で、バルブが拘束されている警察署に出向くが、そこに居合わせた被害者遺族の悲哀にも同情を示さないコルネリアの偏頗(へんぱ)で、エゴイスティックな性格が透けて見える。
 
更に、弁護士でもなく、事故の現実を正確に把握していないのにも拘わらず、憔悴し切った目の前の息子を一方的に擁護する態度は、かつて「社会主義国家」であったが故にか、この国に大きな格差が生まれ、膨張し、引き続き、階級的差別が形成されている現実を如実に示していた。
 
2004年にはNATOに、2007年に欧州連合に加盟し、民主化されたと言っても、階級的特権が優位に、且つ、効果的に機能する社会環境が、隅々まで温存されている現実 ―― これが、この映画の背景に横臥(おうが)する。
 
 
「息子はハイエナの餌食ね。好きで子供を刎ねたと?息子の身になって」
 
家政婦のクララに息子・バルブの家をスパイさせるコルネリアだからこそ、被害者遺族の目前で、こんなことまで言ってのけるのだ。
 
警察の陳述書で、時速140キロで前方の車を追い越そうとして、人身事故を起こしたという事実が判然とする。
 
高速の制限速度が110キロであるため、息子に陳述書を書き換えさせるほどにイニシアティブを発揮し、自ら関与しない死亡事故の処理を弁護士然として誘導していくコルネリア。
 
この時点で、高速道路に飛び出して来た少年の「被害者性」に関心を寄せる向きなど全くない。
 
だから、警察の上層部にもコネクションを持つコルネリアは、事故の処理を息子に有利なように、地元警察をインボルブしていくのである。
 
事故の鑑定書も、当然、コルネリアの意向に沿った書類に化けていた。
 
更に、事故の証人となっている目撃車(バルブが追い越した車)の男・ラウレンツィウに会って、金銭で片付けようとするのだ。
 
そのラウレンツィウとの交渉の場にバルブを出席させようとするが、何もかも、母親が事故処理をする現実に、肝心のバルブは苛立ちを隠せない。
 
「あんた一人で片付けろ」
「私たちに、どんなに不満があろうとも、お葬式だけには出て」
「正気で言ってるのか?」
「哀悼の気持ちを伝えるの。分るでしょ」
「哀悼だって?奴らに殺されてしまう」
「何も手出しはしないわ。お父さんも行くし、カルメンも。皆で行くのよ。正面から向き合うのは、お前のためになるわ。時間が経てば分る。お葬式に出なきゃ、お前は刑務所行きよ」
 
それでも、母親を無視し、カルメンを連れ、実家を出て行こうとする息子に言い放つ母の以下の言葉は、この母子の関係の様態を言い当てていた。
 
「自分の部屋も与えた。食事の世話もしている。衣類まで運んでいるのよ」
 
この会話の現場に医師の父親・アウレリアンもいながら、その無力さを晒すばかりだった。
 
両親の関係の歪みをも知り尽くしているバルブにとって、一切が排除すべき遮蔽物なのだろう。
 
そんな状況下にあって、自分が犯した事故の処理すら満足にできない「大きな子供」の、その自我の未成熟さこそ、まさに、この母子の養育環境の歪みを顕在化するものだった。
 
かくて、母・コルネリアのみが、ショッピングモールのカフェで、事故の目撃車・ラウレンツィウに会うに至る。
 
金銭目的の相手への思惑を読み取ったコルネリアに、ラウレンツィウは具体的な金額を提示する。
 
「そっちが不起訴で済まそうという魂胆なら、8万、もしくは10万ユーロ」
「そんな大金はない。あっても渡す気はない。どうせ法廷で争うことになれば、私もあなたも時間を無駄にし、最悪でも執行猶予で済む」
「なったとしても、息子に前科がつく。気持ちを見せてくれ」
 
ここでラウレンツィウは、コルネリアが自分の息子を刑務所に送らないために、法外な「8万、もしくは10万ユーロ」を支払う意思があるかどうかを試しているのである。(2013年2月の時点で、1ユーロは約128円)
 
「気持ちを見せてくれ」という男の要求は、「今、この場」で、100ユーロを手付として支払うことだった。
 
手持ちの金が不足するのでATMで引き出すというコルネリアの反応で、交渉の継続を望む意思を確認した時点で、この話は取り下げる。
 
今度は、カフェでの「飲み物の支払いでいい」と言うなり、男は自分で支払ってしまうという行為に振れていく。
 
自分の優位の立場を示しつつ、コルネリアの揺れ動く心理を攪乱(かくらん)し、男はどこまでも、交渉を有利にリードしていくのである。
 
まさに、この男は、コルネリアが体験したことがないであろうタフネゴシエーター(手強い交渉相手)だったというわけだ。
 
この会話の背景には、特権的階級の既得権が優位に横行する文化が垣間見える。
 
それを一言でいえば、どのような事態においても、「便宜・利益供与」で処理する非民主的な構造的体質であると言っていい。
 
無論、特権的階級の既得権を有しているのがコルネリアであるからこそ、タフネゴシエーターの餌食にされるのだろう。


 
2  人生の時間を喰い潰す澱んだ空気の広がりの中から
 
 
 
「あなたは世界一の善人じゃない」
 
カルメンは、ここまで言い切った。
 
「私は息子に、別の未来を期待してたの。そこに、あなたが重荷を持ち込んだ」
 
コルネリアも、ここまで言い切った。
 
「実は私たち、別れるんです。だから子供は考えてません」
 
その理由を、カルメンは淡々と話していく。
 
カルメンとの関係の中で、バルブが異常な潔癖症で、HIV、肝炎、遺伝子検査、カンジダなど、ありとあらゆる検査を受けさせられた上、いざ、子供を作ろうとすると、それを回避してしまう臆病さに嫌気が差してきたことに、「まるで理解できない」とまで、正直に吐露するのだ。
 
この話を聞き、衝撃を受けるコルネリア。
 
以下、母と息子の会話。
 
「あんたは絶対に変わらないと、僕は確信している。10年前も5年前も、そう言った」
「なぜ、こんな扱いを?」
「分ってないな。今から言うことを受け入れてくれ」
「なに?」
「このままじゃ、もうダメだ」
「私はすべて受け入れてる。お前に嫌われることも。敬意を払って欲しいだけ」
 
息子に対する自分の深い「献身的愛情」を理解してくれと、この母は今、目の前の息子に甘えているのだ。
 
「僕から、そっちに電話する。僕の電話を待っててくれ」
「私が掛けちゃダメ?」
「僕から、歩み寄りたい」
「今は困難なときだから、ゆっくり考えたいんだ。助けを借りるまでもない。電話するさ。1か月後か、1年後か。半年後かもしれないが、僕から電話する。そしたら関係が作れるかも。このままでは、10年後、20年後でも、今と全く変わらない」
「私はもう、若返れない。残りの人生を近くで過ごしたいの。これから先どうなるのか」
「僕はここからやり直す。何が起ころうと、僕が原因の問題であれ、あんたが原因であれ」
「私が原因って?」
「それはいい。とにかく決めてくれ。僕が掛けたくなるまで、電話を待つかどうか。一つ提案がある。寂しければ、代用品を。愛人を作るとか、友人と旅行に行くとか」
「私の友人は皆、子供と普通に付き合ってるわ。親は子供に期待するの。自分の叶えられなかった夢を」
「それじゃ、同意だね」
 
母と息子の長い会話が終わった。
 
この映画で最も重要なシーンである。
 
意を決したバルブは、母とカルメンに同行し、自らが起こした事故の被害者・アンゲリウの家を訪ねて行く。
 
しかし、人間は簡単に変わらない。
 
結局、肝心な所で母に任せてしまうのだ。
 
「傍にいるだけでいいの」
 
この母の言葉が、「分離ー個体化」=自立化できない母子関係の歪みを引き摺っている。
 
この国の決して豊かではないエリアに住むアンゲリウの家を訪問する、コルネリアとカルメン
 
「可哀想に息子は、ひどく苦しんでいます」
 
夫人の泣き声が聞こえる狭い部屋の一角で、「お悔やみ申し上げます」という儀礼的な挨拶の後のコルネリアの言葉である。
 
14歳の息子を喪ったアンゲリウの嗚咽が止まらない。
 
その嗚咽の中から、必死に封印していたアンゲリウの憤怒が炸裂する。
 
「あの子を撥ねたバカは、事故を起こしたくせに、車から降りもしない!」
 
バルブが車内で待っている事実を知らされていたアンゲリウの怒号に、「たぶん、警察に止められたんです」と弁明するコルネリア。
 
「警察はまだ来てなかったし、どうせ汚職警官ばかりだ!」
 
なお、嗚咽の中から吐き出すアンゲリウの怒号には、この国の治安当局の本質を衝くものだった。
 
「息子の人生を壊さないで」
 
未だ、その思いに決定的な変化が見られないとは言え、それまでのコルネリアの態度とは些か切れていた。
 
 
 
人生論的映画評論・続私の、息子(‘13) カリン・ピーター・ネッツァー 〈状況〉を開き、その〈状況〉の中枢点に自己投入する「胎児」の「恐怖突入」の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/03/13.html