果敢なる戦士・小池都知事は、「コンコルドの誤謬」を食い止められるか 「2020年東京オリ・パラ」に寄せて

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1  メディアが恣意的に垂れ流す偏頗な情報連射を蹴散らせるか
 
 
  
「長沼落選に地元落胆 小池劇場に振り回された」
 
これは、11/29(火)22:04配信の毎日新聞の記事の見出しである。
 
「劇場」という言葉を自ら作り出したにも拘らず、そのポピュリズムを鮮烈に印象づける、「小池劇場」というラベリングを逆利用し、「小池劇場に振り回された」などと書いてしまう始末の悪さに、いつものことだが、辟易(へきえき)させられる。
 
「単なるパフォーマンスだったという意識が国民に広がるはずだ」と突き放したコメントを、県ボート協会会長に言わせるという段取りも常套手段である。
 
こんな予断に満ちた主観的・一方的、且つ、偏頗(へんぱ)な記事を垂れ流すマスメディアの情報連射に絶句する。
 
長沼ボート場(宮城県登米市)を、レガシーと「復興五輪」という大義の象徴として、小池都知事が候補地の目玉として特定し、長沼を視察する。
 
当然のことである。
 
そして、長沼ボート場を「海の森水上競技場」の代替案として提案するが、大会組織委員会の堅固な岩盤を崩すことができず、撤退せざるを得なかった。
 
それだけのことである。
 
それだけのことであるにも拘らず、この文面のバイアスの度合いの高さは、他のメディアと同様に、極めて過剰である。
 
「小池劇場」というラベリングと、「小池劇場に振り回された」という決めつけは、殆ど「確証バイアス」全開である。
 
先入観に基づいて、対象の行為の総体を判断したつもりになって、自分に都合のいい情報だけを集め(県ボート協会会長のコメント)、ここぞとばかりに批判していく。
 
批判・評価を避ける紳士協定である新政権の「ハネムーン期間」が終焉し、批判・評価の商品価値の相対的高さを確認し、一斉に批判の大合唱に転じるから、特定対象に向かって、隠し込んでいた大量のバイアスが一気に押し寄せていく。
 
空気が、それを許容するのである。
 
メディア・リテラシーに欠け、メディアへの信頼度が高い我が国の一般大衆は、メディア(特にテレビメディア)が恣意的に垂れ流す情報の信憑性の高さを正確に見抜けず、そこに「アンカリング効果」(提示された特定の情報が印象に残り、判断に影響を及ぼすこと)が生まれ、「ハロー効果」(対象の評価の際に、目立ちやすい特徴に引きずられる現象)による「認知バイアス」の補填によって、「小池劇場に振り回された」という印象が脳裏に刻まれてしまうだろう。
 
そこで冷却し、液化された空気が凍結するのだ。
 
「メディアが面白がった報道で、あまり興味がない」
 
打たれ強い小池都知事の言葉である。(報ステ・11月30日)
 
散々鍛えられてきて、一層、強化されたのだろう。
 
ここで、冷静に考えてみたい。
 
小池都知事の長沼視察の際に、都知事は村井知事に、カヌー・ボート会場を長沼にするという言質を与えたのか。
 
その時点で、そもそも、そんな確約などできようがないのだ。
 
それは、村井知事も分っている。
 
だから、熱狂する登米(とめ)市民の興奮の鎮静に努めていた映像を、私はテレビで観ていたことを覚えている。
 
11月初旬に、都政改革本部(「都民ファースト」の都政の実現に向けた改革を推進するために設置)の調査チームが、東京大会の4競技である水泳・ボート・カヌー・バレーボールの会場を5つの施設に絞った最終的な提言を受け、「復興五輪」の象徴として、小池都知事が長沼ボート場を4者協議に向け、臨んでいく姿勢を持っていたのは事実である。
 
しかし、前述したように、大会組織委員会の堅固な岩盤を崩すことができず、撤退を余儀なくさせられた。
 
そして、4者協議のトップ級会議の前に、小池都知事はコーツIOC副会長と1対1の事前の話し合い(「13分間の謎」)を持ち、このトップ級会議をフルオープン(完全公開)にすること、そして、長沼ボート場五輪の事前合宿地としての活用が可能との認識を、コーツ副会長から引き出したのである。
 
この「13分間の謎」に対して、感情剥き出しでジャッジする記事があった。
 
「だから小池都知事は信用できない! あのちゃぶ台返しは何だったのか 透明性をうたいながら『密室決着』」と題する、「現代ビジネス 12/2配信 長谷川幸洋東京・中日新聞論説副主幹」の記事である。
 
「見逃せないのは決着の仕方だ。最後の核心部分は闇の中、舞台裏で決まったのである」
 
こう断言するのだ。
 
トップ級会議が一部非公開にされる事態を憂慮して、それを回避するためにフルオープンを求めた会話を「密室決着」と決めつけ、「舞台裏で全部筋書きができあがった話を、もったいつけてカブキのように演じてみせただけである」とまで言い切ったのである。
 
「最後に小池百合子知事が『主役は私よ』と言わんばかりに、周囲に笑顔を振りまきながら入室した。(略)舞台裏で決めた話は、みんなでしっかりカブキを演じなければダメじゃない。観客に見せないなら、私は先に言っちゃうよ」
 
嫌味たっぷりに揶揄する感情剥き出しの主観的言辞を目にして、私は開いた口が塞がらなかった。
 
大体、このジャーナリストが言う「密室劇」の内容は、4者協議の場で、小池都知事によって公表されているのである。
 
だから、件のジャーナリストも、このような悪意含みの「確証バイアス」全開の批判文を配信できたのではないのか。
 
もっとも、小池都知事の公表には、公表内容以外のシナリオ、即ち、「舞台裏で全部筋書きができあがった話」があったという「事実」を前提にしているので、何をか言わんやである。
 
また、コーツIOC副会長との「13分間の謎」の中で、海の森水上競技場を許容することの見返りに、横浜案の先送りをIOCに認めさせたかどうか 、私には全く分らない。
 
しかし、仮にそうであったとしても、小池都知事が横浜案の先送りを提示するのは間違いないので、当然、森喜朗五輪組織委員会会長とバトルになる。
 
そして、本当にバトルになった。
 
小池都知事がそこだけは折れないはずだから、IOCも組織委員会も妥協せざるを得なかった。
 
だから、「13分間の謎」の中で、協議の完全公開と休憩なしの要望を具現させたことこそ、政治家・小池都知事の真骨頂である。
 
後述するが、これは、1対3のハンデを負った小池都知事が、協議のイニシアチブを握るための高度な政治判断の所産であり、そこに何の問題もない。
 
このような交渉術まで否定したら、もう、幼児的発想と言わざるを得ない。
 
ここで、私は勘考する。
 
「現代ビジネス」のこの記事は、前提になる認識の正しさを検証することなく、「自分が見たものがすべて」という無防備な決めつけを起点にして、すべてを展開する論考であり、しばしば、物事を解釈する上で犯しやすいバイアスの典型例である。
 
この類いのバイアスによるエラーは、日常茶飯事に行われているヒューリスティクスによって生じるものだが、ジャーナリズムが予断と偏見によるフライングを犯す温床にもなっている。
 
本来、人間の思考は、世界に関わる様々な現象に対して因果関係を突き止め、解釈して納得する。
 
たとえ、微々たる情報であったとしても、その情報から何某かの因果関係を見い出し、そこに、いかにも理に適っているような、首尾一貫した「ストーリー」を作り上げる。
 
その情報の精度や、「ストーリー」を重みづける主観的(潜在的)なバイアスについて、当の本人が気が付かないケースが多いが、仮に気が付いたとしても、無視してしまうだろう。
 
当人にとっては、「見たものがすべて」だからこそ、自分のバイアスに気づくことなく、もっともらしい証拠を集め、自分の「感情バイアス」(感情的要因による認知の歪み)に沿った「ストーリー」を作り上げてしまうのだ。
 
しかし、件の者は、ある事象を客観的に分析し、解釈した結果であると確信し、そこに首尾一貫性を持たせることによって、当人も周囲も、それが正論であるかのように錯覚してしまうのである。
 
多くのメディアによる発信は、この手のバイアスと、受け手が欲する「動機のバイアス」によって補完される場合もあれば、逆に、批判や攻撃の対象にされることにもなる。
 
このジャーナリストの批判文もまた、スタートにおけるバイアスによって作り上げたストーリーラインに、当人なりの首尾一貫性を持たせているに過ぎない。
 
それが、極度の決めつけや、一面的な見方・評価に過ぎないことを、リテラシー(情報の分析・活用能力)のある者は、容易に見抜くであろう。
 
「私は主観で意識を誘導する様な書き方をするマスメディアが嫌い」
 
これは、件の批判文に対するコメントの一例である。
 
「メディアに関する全国世論調査」(2015年)の結果にも反映されているように、メディアの信頼度は他の先進国に比べると決して低くないが、ネットの普及によって、「批評家を批評する」という、我が国のメディア・リテラシーが高まっていくことを期待する思いで一杯である。
 
物の序で(もののついで)に書いておく。
 
「大山鳴動して…倉田真由美さん、小池都知事に『物足りない』」と題する、「サンスポ 2016.11.30配信」の記事である。
 
「大騒ぎしたのに、物足りない。『大山鳴動してネズミ一匹』だ」と手厳しく、「今回で、小池さんに少しがっかりした人が多いと思う」
 
言うまでもなく、「大山鳴動してネズミ一匹」という西洋由来の諺の意味は、「大騒ぎしたわりには、実際には結果が小さいこと」
 
これだけは看過できなかった。
 
全く根拠の提示のないコメントだからだ。
 
この類いの言辞を、アメリカの認知心理学者・ダニエル・カーネマンによると、「利用可能性ヒューリスティック」と言う。
 
日常的に簡単に利用できる、僅かな情報で判断してしまうからである。
 
好き嫌いの感情が混入する判断・「感情ヒューリスティック」と言ってもいい。
 
どうやら、倉田真由美という漫画家には、このような言辞を弄するレベルの政治的認識しかないようである。
 
「確証バイアス」に沿った「ストーリー」の狭隘さに呆れるばかりである。
 
「自分が見たものがすべて」という、稚拙な発想を自己検証できない漫画家なのだろう。
 
ここまで書いていたら、不快極まる情報が飛び込んできた。
 
「小池さんは、特定の人物を思い浮かべながら、話したんだと思います。ただ、それが、誰かということについては、言及されていないんですけれども、批判を正直に受け止められなくなっているんじゃないかっていう気がするんですよ。窮鼠(きゅうそ)猫をかむっていうか、会場選びでね、敗北を重ねていることによる、焦りがあったんじゃないかなと」
 
この言辞の主は、田崎史郎氏(時事通信社)。
 
ジャーナリストという名で語られる内実の、あまりの愚かさ加減に言葉を失った。
 
一言で要約すれば、これは、殆ど悪感情のバイアスから発する、「ハロー効果」によって展開しただけの評価の言辞としか言いようがない。
 
因みに、「ハロー効果」とは、人物や状況の評価で頻繁に見受けられる重要なバイアスで、特定他者のすべてを、自分の目で確かめていないことまで含めて好ましく思ったり、或いは、全部を嫌いになったりする心理的傾向のこと。
 
然るに、当人はそれを自覚しないまま、もっともらしい理由をつけて、自分の感情傾向に沿った論証を展開して見せる。
 
だから、厄介なのだ。
 
私が見た限り、いつものように、笑みを湛えながら、余裕の表情で反応する小池都知事の態度は、メディアの無自覚さを冷静に指摘した完璧な物言いだった。
 
焦りゼロ。仮にあっても、決してそれを見せない。
 
百戦錬磨の政治のフィールドで生き抜いてきた、この果敢なる戦士は、負けてすぐ泣く軟弱な男たちの脆さと切れ、崖から飛び降りた地を戦場にして、そこで日夜、思考し、闘っているのだ。
 
当然のことながら、安全なスポットで、政治を語るだけの器の小さい、件のジャーナリストの狭隘な射程には、戦士の器のスケールなど入り込めないだろう。
 
かくて、女性のトップリーダーとして時代を駆け抜けていく、小池都知事の政治手腕の風景を見せつけられ、男性優位社会で呼吸を繫ぐ男たちの警戒感や、女性蔑視感情が露呈されるばかりの卑小さが、私の視界に捕捉されてしまうのである。
 
潜在的にも顕在的にも、「ハロー効果」として影響を及ぼしているメディアの能天気な風景が、そこに垣間見える。
 
だから、下衆の勘ぐり(げすのかんぐり)としか言いようがないのだ。
 
ひたすら私は、果敢なる戦士・小池都知事には、メディアが恣意的に垂れ流す偏頗な情報連射を蹴散らせて欲しいと期待するばかりである。



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