1 虚しく揺曳する、運命的な再開を果たした男と女の寒々しい風景
「終わりよければ全てよし」
この言葉は、惚れ抜いた貴族出身の男を、手練手管の限りを尽くした果てにものにした貧しい医者の娘が、最後に語った台詞であり、同時に、シェイクスピア喜劇の戯曲名となっている。
この戯曲のヒロインの行動は相当に乱暴だが、「途中がどうであろうと、終わりに花が咲けばよい」という台詞が、この言葉の後に続くところが味噌である。
「終わりに花が咲けば」、そこに至るまでの全ての苦労が報われるからである。
ところが、そこに至るまでの幸福感がどれほど心地よくとも、その幸福感が終わりまで続くことがないばかりか、終わりにトラウマになるような痛手を被(こうむ)ったら、その経験は、幸福感の「ピーク時」よりも、「エンド時」(終了時)の痛手の記憶のみが残って、とうてい、シェイクスピア喜劇のヒロインの心境には届かないだろう。
以上の事例は、「ピーク・エンドの法則」という嘱目(しょくもく)すべき仮説によって説明されている。
仮説の提示者は、認知心理学・行動経済学のフィールドで、最も強い影響力を持つアメリカの心理学者・ダニエル・カーネマン。
「ファスト&スロー」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)において、「ヒューリスティックス」(直感で素早く解に到達する方法)と「バイアス」についての研究を集大成したカーネマンによる、「代表性ヒューリスティック」(注)と言っていい、この仮説の内実は、人間の「快・不快」に関わる記憶の多くは、固有の自我の経験の「ピーク時」と「エンド時」の、「快・不快」の程度によって決定される法則という風に解釈される。
たとえ、その経験の中に、多くの楽しいエピソードや、苦痛を感じる出来事が記憶に残されていたにしても、経験の「ピーク時」と「エンド時」の「快・不快」の記憶が、言わば、「絶対経験」として、いつまでも自我の奥深くに張り付いてしまって、その主体の人生に決定的な影響を及ぼすが故に看過し難いのだ。
まして、「生涯、忘れられないような熱烈な恋愛」を経験した場合、「エンド時」(終了時)の痛手が「別離のトラウマ」と化し、件の者の自我を、時には焼き尽くしてしまうかも知れない。
幸いにも、焼き尽くされなかったが、「別離のトラウマ」によって深々と自我が抉(えぐ)られ、そこに張り付いてしまったネガティブな記憶の中枢を時間のうちに昇華させられず、悶々とした思いを引き摺ってしまった男がいる。
件の男の名は、通称・リック。
ハンフリー・ボガート主演の、映画「カサブランカ」の話である。
ハンフリー・ボガート演じるリックに「別れの手紙」を残して、突然、彼の前から姿を消した女の名は、イングリッド・バーグマン演じるイルザ。
「もう、お目にかかれません。何も聞かないで。”私が愛していることを信じて下さい イルザ”」
イルザからの「別れの手紙」の文面の全てである。
これだけの言葉の味気無さに、リックは衝撃を受ける。
「私が愛していることを信じて下さい」という一言が張り付いていたから、余計、始末が悪かった。
一瞬にして瓦解する、リックとイルザの「ハネムーン幻想」。
イルザとの「ハネムーン幻想」の、目眩(めくるめ)く愉悦の日々の回想が、「別離のトラウマ」の辛さを否が応でも引き摺り出し、リックは自らの内部で繰り返し問い返し続けていく。
「愛し、愛されていたのに、なぜ、私の前から消えてしまったのか」
どれほど問い返し続けても、答えが出てこない。
「愛しているというのは、単なる口実なのか」
「彼女に何があったのか」
「一体、彼女は何者なのか」
空転する思考、苛立つ感情群、張り裂ける胸懐。
リックにとって、自我の安寧の拠って立つ基盤には、それ以外にない結婚相手として考えていたイルザの、その眩(まばゆ)いばかりの存在それ自身だった。
その「ハネムーン幻想」が、あの雨の日、唐突に崩れ去ったのである。
最愛の恋人との別離の理由が理解できずに、「ハネムーン幻想」の破綻を経験した残酷さが、リックの自我を襲撃する。
何もかも不分明なのだ。
置き去りにされた現実だけが、リックの記憶の全てなのである。
まさに、「ピーク・エンドの法則」で言うように、「ハネムーン幻想」という「ピーク時」よりも、「エンド時」(終了時)の痛手の記憶のみが残って、リックの自我は、迷妄の森の深みに捕捉されてしまうばかりだった。
迷妄の森の深みに捕捉された男の選択肢が、女の行方を求める行動に振れていく以外になかったのは、充分過ぎるほど理解できる。
「愛している」と言って、自分を置き去りにした女を探し出し、直接、その女から別離の理由を聞き出さざるを得ないのだ。
だからリックは、イタリア領東アフリカの、エチオピアの独立戦争の戦士たちに武器を売り、スペインの人民戦線にも参加し、パリでも闘ったことで、ナチス・ドイツのブラックリストに載っていながらも、今にも、ドイツに支配されかねない北アフリカの、無国籍の臭気を漂わせる危うい街の一角で、ナイトクラブを経営するに至ったのである。
イルザとの再会の切願する強い思い ―― これが本音であるのは言うまでもない。
しかし、待てど暮らせど、イルザは現れない。
リックの自我が、いつしか空洞化し、かつての人民戦線兵士とも思えない、底なしのニヒリズムの世界に嵌っていったのは必至だった。
「今夜、会える?」と愛人に求められても、「先のことは分らん」という反応しか返せないのである。
愛人を持っても、心から情動が振れていくことなどないのだ。
そして、遂にやって来たイルザとの再会は、思いも寄らない形で実現した。
あろうことか、夫と思しき男と共に現われたのである。
男の名は、ビクトル・ラズロ。
彼らの目的は、アメリカへ渡るための通行証を手に入れること。
二枚の通行証を探しあぐねていた二人は、最終的に、ナイト・クラブを経営するアメリカ人が持っているという情報を掴んだので、必然的にリックと会う運命に流れていく。
イルザと目が合って、言葉に詰まり、ただ見詰め合う二人。
ショックを隠せないのだ。
しばらく、見つめ合う二人。
それだけだった。
その夜、閉店後の店で、遅くまで深酒するリック。
「世の中には、たくさん酒場があるのに、なぜ、ここに来た」
深酒しながら、愚痴とも思える言葉を吐き出す男。
「オスロから出て来た一人の娘が、夢のように著名な人物にパリで会ったの。勇気ある立派な男性。彼は、娘に素晴らしい世界を教えた。娘は生まれ変わったわ。そして、彼に対する尊敬の念を。愛だと思ったの」
イルザは正直に吐露する。
「美しい話だ。そういう話はよく聞いたよ。”若い頃、ある男性に会ったの”。どっちもつまらん話だ。それで、あのときの男は?ラズロか、別の男か?それとも秘密か」
リックの反応には、屈折した心理が見え隠れしている。
真摯な会話を求めてきたイルザに対する、深酒の中でのリックの厭味な応酬は、彼女に惹起した複雑な事情を聞くに足る、誠実な態度を身体表現することを拒み、ひたすら、「自分を裏切った女」への「怨み節」に終始してしまった心理が発動してしまったものである。
「俺はもう、これ以上、君の言い訳など聞きたくもない」
そんな感情が蠢(うごめ)いて、「話せよ」と言いながら、存分に偽悪的な言辞に振れていく。
その結果、相手の「言い訳」を封じてしまうのである。
しかし、この感情だけは、一方的に吐き出さざるを得ない何かだった。
だから、会話の不毛性だけが、色彩のない闇のスポットを暗欝にするばかりだった。
去っていく女。
誰もいなカウンターテーブルに、顔を埋める男。
あまりにも寒々しい風景イメージが、運命的な再開を果たした男と女の、その特化された闇のスポットで虚しく揺曳していた。
(注)「ヒューリスティックス」を、典型的と思われるものを判断に利用する「代表性」②日常的に簡単に利用できる情報で判断してしまう「利用可能性」、③最初に示された特定の数値などに縛られてしまう「固着性」(アンカリング効果)の3点にあると、カーネマンは指摘する。
心の風景 「『ピーク・エンドの法則』で読み解く映画『カサブランカ』のロマンスの構造」より抜粋http://www.freezilx2g.com/2016/11/blog-post.html