1 三段跳びをやってのけた男 ―― 文化大
この一件は、彼女の生涯のトラウマとなっていく。
1000万人以上とも言われる犠牲者を出したこの「革命」の本質は、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席や鄧小平(とうしょうへい)共産党総書記に代表される「走資派」(政敵)を失脚させるための、「プロレタリア文化大革命」という名で糊塗(こと)された、中国共産党の権力闘争以外の何ものでもなかった。
【因みに、「道徳国家ともいうべきものを目指すもの」と社説(1968年10月15日)で評価した朝日新聞を初め、文革は「七億の人間の一人一人の心の中に新しい万里の長城」を築き上げようとする、毛沢東の「壮大な試み」であるとした高橋和巳他、ジャン=ポール・サルトルやミシェル・フーコーと言った国内外の知識人の多くが、文化大革命を礼賛した事実を私は覚えている。】
国内の「反革命分子」は、狂気の沙汰の紅衛兵の迫害の餌食にされ、画像にあるように、暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。
苛酷な糾弾によって、多くの自殺者を生み出したのも「文革」の特徴だった。
狂気の沙汰の歴史が永劫に続くだろうと諦念する悲観と、絶望的な人間不信が、自殺者の続出の心理的背景にある。
殆ど、チェン・カイコー監督の映画「さらば、わが愛/覇王別姫」の世界である。
一方、「歴史的・現行反革命分子」というレッテルを貼られたことで、定職に就くことを奪われた父の無念を晴らす術もなく、 チャン・イーモウ少年自身も苛酷な迫害を受けるに至る。
紅衛兵の暴走が止まらない。
また、1959年の廬山会議(ろざんかいぎ)で、大躍進政策を批判した初代国防部長・彭徳懐(ほうとくかい)もまた、紅衛兵による暴行・虐待の連射で息を引き取るに至る。
社会の劇的変化を求める10代の若者の魂を、政治的意思を持った老獪(ろうかい)極まる権力者がラジカルに洗脳し、その突沸(とっぷつ)した状態を煽(あお)るように一気に点火すればどうなるかという、典型的な歴史的事例がここにある。
自らが煽動したにも拘らず、もはや、紅衛兵の暴走をコントロールする能力を失った挙句、毛沢東は大都市から遥か離れた地方の農村に、先鋭化した紅衛兵を放り込むことで国内の大混乱の収拾を図っていく。
文化大革命の渦中で学校が閉鎖され、都市部の青少年層を地方に送り出す大規模な「下放政策」=「上山下郷運動」(じょうさんかきょううんどう)が発動される。
地方農村での肉体労働を通じて思想改造を遂行するというのが主目的だったが、この「下放政策」によって、多くの青少年層が教育の機会を奪われ、ごく普通のサイズの教育システムが崩壊し、下放を受けた世代の深刻な低学歴現象を惹起する。
この「下放政策」で、地方農村に放り込まれた何百万人もの若者の中に、チャン・イーモウ青年もいた。