三段跳びをやってのけた男 ―― 文化大革命という狂気を越えて

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1   三段跳びをやってのけた男 ―― 文化大
革命という狂気を越えて
 
 
 
蒋介石に忠誠を誓った国民党の青年将校がいた。
 
ソビエト連邦政府が支援する共産党との国共内戦での敗退によって、台湾に脱出した蒋介石随行せず、同様に、国民党の軍人である叔父が殺害されながらも、その男は中国に残った。
 
中国人としての誇りを捨てたくなかったのだろうか。
 
それが、この男の人生を決定的に狂わしていく。
 
この男が27歳の時、長男が生まれた。
 
その長男こそ、後のチャン・イーモウ張芸謀)監督である。
 
ところが、27歳の父が国民党の青年将校(「少校」=日本の「少佐」)であったために、彼は「歴史的反革命分子」と「現行反革命分子」(過去も現在も「反革命分子」という意味)にされたことで、異常を来した精神状態で暴走する紅衛兵によって命を奪われなかったものの、30数年間、定職に就くことができなかった。
 
その結果、若い医師であった母親が家族の収入を支えるに至る。
 
いつも明るく、ポジティブな性格の母親の逞しい双肩に、この一家の生存の可能性が託され、貧乏にめげることなく、彼女は病院と家を往復する厳しい生活に耐え抜いていく。
 
しかし折り悪く、毛沢東共産党主席の主導下で、残存する「資本主義文化」の打倒を標榜して展開された文化大革命の厳しい状況下で、幼い息子(チャン・イーモウ監督の弟)を救い切れず、聴覚障害者にしてしまった。
 

この一件は、彼女の生涯のトラウマとなっていく。

1000万人以上とも言われる犠牲者を出したこの「革命」の本質は、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席や鄧小平(とうしょうへい)共産党総書記に代表される「走資派」(政敵)を失脚させるための、「プロレタリア文化大革命」という名で糊塗(こと)された、中国共産党の権力闘争以外の何ものでもなかった。

【因みに、「道徳国家ともいうべきものを目指すもの」と社説(1968年10月15日)で評価した朝日新聞を初め、文革は「七億の人間の一人一人の心の中に新しい万里の長城」を築き上げようとする、毛沢東の「壮大な試み」であるとした高橋和巳他、ジャン=ポール・サルトルミシェル・フーコーと言った国内外の知識人の多くが、文化大革命を礼賛した事実を私は覚えている。】

国内の「反革命分子」は、狂気の沙汰の紅衛兵の迫害の餌食にされ、画像にあるように、暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。

苛酷な糾弾によって、多くの自殺者を生み出したのも「文革」の特徴だった。

狂気の沙汰の歴史が永劫に続くだろうと諦念する悲観と、絶望的な人間不信が、自殺者の続出の心理的背景にある。

 

殆ど、チェン・カイコー監督の映画「さらば、わが愛/覇王別姫」の世界である。

一方、「歴史的・現行反革命分子」というレッテルを貼られたことで、定職に就くことを奪われた父の無念を晴らす術もなく、 チャン・イーモウ少年自身も苛酷な迫害を受けるに至る。

紅衛兵の暴走が止まらない。

 
毛沢東による「大躍進政策」(1958年から1961年/農業・工業の大増産政策で、毛沢東自己批判)の失敗で、毛沢東に代わって国家主席(国政の最高責任者)に就任し、経済の回復に努めていた劉少奇は、自宅に軟禁された挙句、激しい暴行を受け、病に伏すものの、散髪・入浴ともに許されず、ベッドに横たわる状態となっても、まともな治療を受けられず、病状悪化の中で逝去する。
 

また、1959年の廬山会議(ろざんかいぎ)で、大躍進政策を批判した初代国防部長・彭徳懐(ほうとくかい)もまた、紅衛兵による暴行・虐待の連射で息を引き取るに至る。

社会の劇的変化を求める10代の若者の魂を、政治的意思を持った老獪(ろうかい)極まる権力者がラジカルに洗脳し、その突沸(とっぷつ)した状態を煽(あお)るように一気に点火すればどうなるかという、典型的な歴史的事例がここにある。

自らが煽動したにも拘らず、もはや、紅衛兵の暴走をコントロールする能力を失った挙句、毛沢東は大都市から遥か離れた地方の農村に、先鋭化した紅衛兵を放り込むことで国内の大混乱の収拾を図っていく。

文化大革命の渦中で学校が閉鎖され、都市部の青少年層を地方に送り出す大規模な「下放政策」=「上山下郷運動」(じょうさんかきょううんどう)が発動される。

 

地方農村での肉体労働を通じて思想改造を遂行するというのが主目的だったが、この「下放政策」によって、多くの青少年層が教育の機会を奪われ、ごく普通のサイズの教育システムが崩壊し、下放を受けた世代の深刻な低学歴現象を惹起する。

この「下放政策」で、地方農村に放り込まれた何百万人もの若者の中に、チャン・イーモウ青年もいた。

 
小さい頃から学力優秀ながら、政治的偏見と「家庭成分」(家族構成)、更に階層的差別のターゲットにされ、精神的な抑圧を背負って生きていく青春を余儀なくされたチャン・イーモウ青年は、誇り高き父母のDNAを受け継ぎ、脇目も振らず、必死に働き続ける日々を繋いでいく。
 
3年間、農業に従事した後、今度は紡績工場に送られるが、最も汚くて、辛い現場が待つ補助工の身分なのに、綿の入った巨大な麻袋を遠くまで担いで運ぶのだ。
 
しかし、彼はめげない。
 
7年半に及ぶこの苛酷な肉体労働が、彼の頑健な身体を鍛え上げていく。
 
そんな中で、全く収入のない父が住む実家に送金する若きチャン・イーモウ
 
思い込んだら徹底的に信念を貫く彼は、その後、自分の将来の職業を模索する中で、幼い頃から絵画や写真に興味を抱いていた夢を具現化すべく、年齢制限の壁を超え、北京電影学院(映画の専門家を育成する唯一の国営の映画学校)への入学を果たす。
 
その後、カメラマン⇒俳優⇒映画監督という三段跳びをやってのけるのだ。
 
これが、自分の血を売りながら、カメラを買う金を貯めていた、チャン・イーモウという男の生き様であった。
 
 

心の風景 三段跳びをやってのけた男 ―― 文化大革命という狂気を越えて よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/07/blog-post_7.html