
序 「21世紀の偉大な映画ベスト100」の慧眼なる評価
2016年8月に、英BBCが企画した、「21世紀の偉大な映画ベスト100」が発表された。
36の国と地域から177人の映画評論家がベスト10を提出。各1位に10点、2位に9点とポイントをつけ、合計ポイントを集計したものだ。
1位に輝いたのは、デビッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」(2001年)。
2位がウォン・カーウァイ監督の「花様年華」(2000年)。
そして3位は、ポール・トーマス・アンダーソン監督の「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007年)。
正直、驚いた。
でも、充分に納得できる。
このトップ3の作品は、私の大好きな映画である。
何より驚いたのは、「花様年華」の高い評価である。
因みに、私の1位の作品は、迷うことなく「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」。
アンダーソン監督の演出力と、ダニエル・デイ=ルイスの演技力の凄みに圧倒された。(注1)
プロの映画評論家の慧眼(けいがん)に、妙に感心すること頻りだった。
因みに、日本の映画評論家が含まれていても、邦画がアニメの「千と千尋の神隠し」(第4位)以外に、「ベスト100」の中に全く入っていなかった。
そこに、映画評論家特有の「自己基準的価値観」が色濃く反映されていたにせよ、日本映画に対する評価の低さに、別段、驚くにはあたらないと、私は率直に思う。
これが、邦画のレベルなのだろう。
邦画界から、ポール・トーマス・アンダーソン監督やミヒャエル・ハネケ監督の作品のような秀逸な映画が出現するとは、とうてい思えないからだ。
そんな訳で、ここでは、「花様年華」で描かれた男と女の究極のエロティシズムの様態について、拙稿を部分的に修正しながら、もう一度、考えてみようと思った次第である。
物理的距離を近接させた男と女がいる。
右手にポットを下げて、麺や惣菜等を買いに行く、チャイナドレスが眩い女と、キャリアウーマンの妻を持つが故に、夕飯を食べに行く男が出会う屋台での、日常的な交叉がリピートされ、物理的距離を近接させていく。
物理的距離を近接させていくけば、心理的距離の近接感を招来する。
心理的距離の近接感が招来した「親和動機」(他者との関係を友好的に維持したいという動機)の相乗効果のうちに、相互に引き寄せ合う男女感情が生まれていくのは殆ど必然的だった。
「親和動機」の相乗効果を分娩した直接的契機は、お互いの伴侶が不倫関係にあると信じる「秘密の情報」を共有したからである。
海外出張が多く、留守がちの自分の配偶者の裏切りに対する意地が、対象人格への反発力を作り出したのか、女への最近接を求める男の侵入を、女は「一線を越えられない」と答えて封じていく。
手を握る辺りまではいくが、男はもう、その先に進めない。
「秘密のスポット」(ホテル・2046号室)を共有した二人は、それもまた、伴侶の裏切りへのアンチテーゼであるかのような、格好の具象的な目標を構築するに至る。
作家志望の男の創作活動に関わる共同作業が、それだった。
いつしか、小説の世界と現実がシンクロし、女は内側に蓄えていた情感を丸ごと自己投入していく。
赤いコートを着込み、カーテンの赤の色彩が眩い「秘密のスポット」に潜り込むことで、明らかに、男の人格的侵入を心地良く受容する女が、そこにいた。
これには伏線があった。
伴侶に愛人ができたことを難詰(なんきつ)する女と、難詰される男。
創作の世界を視野に入れた、ロール・プレイング(役割演技)である。
その役割演技を、リアルに演じる二人。
小説と現実がシンクロする、極めてスタイリッシュな映像の独壇場の世界だが、それは、敢えて物語を複雑化させる作り手が観る者に仕掛けた、「出入り口」を見えにくくする表現トラップでもあった。
そんな分かりにくさの中で、運命的な豪雨の夜、明らかに二人は、「一線を越える」時間のうちに、全人格的な投入を遂行した。
それでも男は、女を振り切った。
しかし、女からの無言の電話と、女のシンガポール訪問の行動様態を見る限り、観る者に、「精神恋愛」という「寸止めの美学」を垣間見せる効果の範疇を超える、極めて肉欲的な情感濃度を体現させる何かがあった。
女が随伴した息子が、男との不倫の関係の中で儲けられた子供であるか否か定かではないが(注2)、少なくとも本作を、「究極のロマンティシズム」としての「究極のプラトニック・ラブ」という把握で括るには、相当程度、無理があると考えざるを得ない。
本作の印象形成は、「女は顔を伏せ、近づく機会を男に与えるが、男には勇気がなく、女は去る」という余分で、説明的なキャプションの凡俗性によって固められていたが、このキャプションで決定付けられた「映画の嘘」が、提示された映像に張り付く「曖昧さ」と矛盾しないからと言って、提示された映像に対する解釈の多様さもまた否定されたことにはならないだろう。
私としては、映像の力技のみだけで、最後まで走り抜けて欲しいという願望が、キャプションが張り付く冒頭から挫けてしまったほどである。
然るに、キャプションの張り付けが、その後に展開される、男と女の精緻で寡黙な内面描写の秀逸さを希釈化させるほどに、決定的な瑕疵と断じる印象に雪崩れ込まなかったが、それでも映像構成の独善性が些か気になったのは否めない。
ここでは、エロティシズムについて書き添えておきたい。
明らかに、その夜、女は男との濃密な心理的絡みを超えて、肌の触れ合いを求めていた。
男もまた、女の情感に寄り添い、肌を合わせることを求めていた。
映像が観る者に提示したものは、男と女の深々とした睦みの描写以外の何ものでもなかった。
しかし、映像はそれを映し出すことをせず、シンガポールに行く前の男と、逢瀬を重ねられない女の寂しさをフォローするだけだった。