自分の才能を見つけるという「能力」の難しさ

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人間は滑稽な生き物である。
 
社会的適応を果たす上で最低限必要な情報を手に入れ、その情報を駆使する相応の能力を持つことで、一定の「地位」と「収入」を得ることに成就したとき、その成就のインセンティブの内に「自己有能感」がべったりと張り付いていて、それがいつしか、自分の能力の範疇に収納し得ないフィールドにまで有能感覚の稜線が広がってしまうことが、それを可能にする条件が用意されている限り充分に起こり得ることである。
 
それが単に、社会的適応をより有利に果たす上で必要な知識の集積でしかないにも拘らず、不確実なジャンク情報も含めて、それによって政治や社会を語り、人間の複雑な問題や世界の行方を語り、勢い余って、宇宙の原理について確信する者のように語っていく誘惑を、どうやら私たちは簡単に抑制できないようである。
 
フラットな知識の集積の延長上に、見識・卓見が形成されるとは限らない現実を合理的に認知できず、「見識ある何者か」として自らを立ち上げ、湧泉の如く内蔵すると信じて止まない才能によって、実際は複雑で、容易に解答が見つからないような問題について、驚くほど、したり顔で、且つ、堂々と語り尽くして止まないのだ。
 
困ったことに、そこに流行の思想や、一見、革新的・前衛的なジャンク情報群が新たに収納されることによって、それを得意げに駆使し、特定部門の才能の実践的表現者になることを簡単に決意させるモチーフが、現実原則の命題で社会に関与する自我の抑制系を突き抜けて、その内側で加速的に形成されてしまうことがしばしば出来するのである
 
フラットな知識の集積を、特定部門の才能の完成形に繋いでいくことの難しさをリスクテイクする厄介さと滑稽さ ―― それが、人間がしばしば犯す過誤・失態や、決定的な蹉跌(さてつ)の一つの裸形の様態でもあるだろう。
 
同様の文脈で言えば、特定部門の専門知識が、その部門の実践的表現者としての才能を、必ずしも発現しないことが多々あるという事実も、私たちの経験則の教えるところでもある。
 
音楽の知識を持つ者が優れた作曲家になったり、美術の知識を持つ者が優れた画家になったりすることが、必ずしもストレートに具現しないように、自分の才能を見つけることはかくも難しいのだ。
 
それ故に、自分の才能を見つけるという行為自体、人間にとって最も枢要な能力である。
 


心の風景 自分の才能を見つけるという『能力』の難しさ」よりhttps://www.freezilx2g.com/2018/12/blog-post_29.html