1 「我々は『恐怖』に支配されていた」
国家権力と戦争する前に、権力打倒に糾合(きゅうごう)し、集合する居並ぶ同志と戦争してしまった。
かくて、国家権力の殲滅(せんめつ)を標榜(ひょうぼう)する戦争は、その戦力を手ずから破壊したにも拘らず、運よく破壊から免れた僅かな手勢(てぜい)によって、彼らが「人民」と呼ぶ無数の人々の息詰まる重い視線を被浴しつつ、躬行(きゅうこう)されるに至る。
世に言う「あさま山荘事件」である。
3人の死亡者(警察官2、民間人1)と、27人の負傷者(警察官26、報道関係者1)。
この衝撃的事件が生み出した、犠牲と被害を蒙った人々の数字である。
河合楽器製作所所有の軽井沢保養所・浅間山荘を舞台にし、管理人の妻を人質にして立て籠った事件は、10日間に及ぶ日本最長記録の監禁・人質が生中継で放送されたことで、平均50.8%の視聴率を記録したと言われるほど、多くの国民にインパクトを与えるに充分過ぎた。
1972年2月のことだった。
事件を起こした極左組織の残党は5人。
その名は、坂口弘、坂東國男、吉野雅邦(まさくに)、加藤倫教(みちのり/19歳)、加藤の弟(16歳)。
後二者は未成年だったので、当時、「少年A」と呼称。(因みに、改正少年法によって、2022年4月から「特定少年」と明記され、実名報道が可能になる)
ここに、一冊の本がある。
著書の名は、「連合赤軍少年A」。その副題は、「我々は『恐怖』に支配されていた」。
その著者の名は、当時19歳だった「少年A」の兄・加藤倫教である。
刑務所の中で転向し、出所後は自民党の党員となり、現在、農業を営んでいる加藤倫教は、周知のように、「総括」という名で、長兄を山岳ベースで殺害されるに至った、加藤3兄弟の二男に当たる人物でもある。
本稿では、その著書の中から、「あさま山荘」での「殲滅戦」に関わる記述を引用する。
十日目の二月二十八日のこと。
事件の最終日に関わる以下の記述が、そこに闘争気分が萎えていく思いを乗せて、生々しく再現されていた。
「下に降りてくると、途端にガタガタと体が震えだした。それまで警察の攻撃に応戦する緊張感で気がつかなかったが、体中びしょ濡れだった。外気の温度は零下十数度と報道は伝えていた。
下へ降りるまでの間に、私たちの発砲で二人の幹部警察が死亡したということを、ラジオをずっと聞いていた坂口から聞かされていた。坂口は、『やった。警察を殲滅したぞ』と言って、前線にいる四人にニュースを伝えたのである。
私は十二人の同志たちに対して厳しい『総括』を要求し、死に追い詰めた永田や森に追随してきた自分の責任を果たすという意味で警察と対峙している今、闘わねばならないと思っていた。
警察に向けて引き金を引くことに躊躇はあったが、やるしかないと思った。
だが、二十一日にニクソン米大統領が中国を訪問し、世界情勢は大きく変わろうとしていた。
私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカがベトナム侵略の加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めねばならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。
――ここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この闘いは未来に繋がっていかない……。
そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。
屋根裏から下に降りてからは、私はもう警察と闘うことはしなかった。
兄が死に、私が逮捕されれば重罪であることは確実だった。せめて弟だけは早く親元に帰したい。弟が重罪に問われるような行動をとらないためにも、早くこの『闘い』が終わって欲しいと願った。(略)
私は正しい情勢分析をすることができなかったのだ。自分が立ち上がることで、次から次へと人々が革命に立ち上がり、小から大へと人民の軍隊が成長し、弱者を抑圧する社会に終止符が打たれる。そんなことを主観的な願望だけで夢見ていた。
その自らの浅はかさ、未熟さを思い知り、自分を叩きのめしてやりたいほどの悔しさを感じていた。だから、逮捕され、引き立てられて行くことには何の感慨もなかった。
ただ、せめて正義を実現する社会を夢みた志だけには誇りを持ち、毅然と歩こうと考えたのだった」
「十二人の同志たちに対して厳しい『総括』を要求し、死に追い詰めた永田や森に追随してきた自分の責任を果たすという意味で警察と対峙」し、「闘わねばならない」という感情を必死に自給しつつも、その実、闘争意識がすっかり失せた思いを認知し、今はひたすら弟の身を案じる、19歳の末端の兵士がそこにいた。
更に、「あさま山荘」事件の最高指導者であった、坂口弘の著名な手記からも引用したい。
寡黙な「革命戦士」を彷彿させる彼が、人質の夫人に対して、必ずしも最も倫理的で柔和な対応をした訳ではない事実を確認しておきたい。
「私は、窓際のソファーに夫人を押し倒した。誰かが炬燵(こたつ)カバーを夫人の顔に被せようとしたが、夫人は頭を振ったり、手で払ったりして嫌がった。
私は、それを止めさせ、『彼女の気持ちが分からないから縛っておく』と板東君らに言い、夫人を北側から二番目のベッドに連れて行き、上段と下段のベッドを連結した梯子に縛り付けることにした。
夫人は、体を海老のように折り曲げて嫌がった。グニャッとして、扱い難かった。夫人は、突然の出来事を、現実なのか、幻覚なのか、いずれとも判別しかねるといった感じで、表情に恐怖と笑みが交互に現れた。
ようやく梯子(はしご)の背を凭(もた)せかけ、脚を前に伸ばして坐らせた。私はベッドルームにあった洗濯用紐を使って、最初に夫人の左、右上腕を梯子に縛り付け、次に後ろ手にした両手、そして両足、足首、両膝と順次縛って行った。
緊縛が終わると、これもベッドルームにあったハンカチを丸めて夫人の口の中に入れた。だが、夫人が激しく嫌がったので、すぐ取り出し、代わりに猿轡は緩めにしたが、すぐはずした。残酷に思えたからである」(「あさま山荘1972・(下)」彩流社刊/筆者段落構成)
以上の記述で明らかなように、人質となった夫人に対する「革命戦士」の態度が、映像で描かれたような、際立ってモラリスト然とした立派なものではなかったということだ。
坂口は夫人を緊縛したのである。確かに、緊縛を解いた2日目以降、夫人に対する対応には硬質的な態度が消えていたが、当事者である彼の手記には、夫人を「人質」として見ていた事実が窺われるのである。
当然の如く、夫人も又、恐怖感の中で、彼らを怒らせないように相当の配慮をしていたことが読み取れるが、しかし、「中立」を約束させられた後の夫人の心から、少なくとも、命の保証だけは得たという安心感があったのは事実らしい。但し、夫人が山荘の外からの家族の呼びかけに対して、その度に涙を流していたという記述が、坂口の手記の中に記録されていた事実を書き添えておく。
―― ここから、事件の全貌に迫っていきたい。
未成年の二人を含めて、なぜ、彼らは信州の山奥に籠っていたのか。
それを説明するには、彼らが所属する組織内部で起こった忌まわしき事件について書いていかねばならない。
連合赤軍とは、当時最も極左的だった「赤軍派」と、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」(日本共産党から除名された毛沢東主義者が外部に作った組織)を自称した軍事組織である、「京浜安保共闘」(以下、「革命左派」)が軍事的に統合した組織で、その最高指導者に選出されたのは、「赤軍派」のリーダーである森恒夫。更に組織のナンバー2は、「革命左派」のリーダーである永田洋子。
彼らは群馬県と長野県にかけて、「山岳ベース事件」と「あさま山荘事件」を惹き起こした。
とりわけ前者の事件は、組織内の同志を「総括」の名において、次々に凄惨なリンチを加え、12名を殺害、遺棄した事件として、この国の左翼運動史上に決定的なダメージを与えた。
従って、「連合赤軍事件」は、この「山岳ベース事件」がなぜ惹き起こされたかという、その構造性を解明することこそ、私は緊要であると考える。
事件に関与した若者たちの過剰な物語を支えた革命幻想は、彼らの役割意識を苛烈なまでに駆り立てて、そこに束ねられた若い攻撃的な情念の一切を、「殲滅戦」という過剰な物語のうちに収斂されていく。しかし彼らの物語は、現実状況との何らの接点を持てない地平で仮構され、その地下生活の圧倒的な閉塞性は若者たちの自我を、徒(いたずら)に磨耗させていくばかりだった。
ここに、この事件をモノトーンの陰惨な映像で突出させた一人の、際立って観念的な指導者が介在する。
当時、先行する事件等(「大菩薩峠事件」、「よど号ハイジャック事件」)で、殆ど壊滅的な状態に置かれていた赤軍派の獄外メンバーの指導的立場にあって、現金強奪事件(M作戦)を指揮した末に、連合赤軍の最高指導者となった森恒夫その人である。
この事件を、「絶対的な思想なるものを信じる、若者たちによる禍々しいまでの不幸なる事件」と呼ぶならば、その事件の根抵には三つの要因が存在すると、私は考える。
その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。
その二。状況の底知れぬ閉鎖性。
その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
―― 以上の問題を言及することで、加藤倫教が記した、「我々は『恐怖』に支配されていた」
という言葉のリアリティが理解できるのである。