スウィート ヒアアフター('97)   アトム・エゴヤン <コミュニティの治癒力によるグリーフワークの遂行>

 これは、長い時間を要すれば、コミュニティが内側に持つ固有の治癒力によって、「対象喪失」という「不幸」に対するグリーフワーク(悲哀を癒す仕事)が遂行されていくかも知れないにも関わらず、その類の「不幸」と無縁に、「他人の不幸」を金銭に換算することで見過ぎ世過ぎしている者が、外部から唐突に侵入することによって、コミュニティが内側に持つ固有の治癒力を破壊させる危うさを持つ男の偽善性と、その男が吹く笛の妖しい音色に誘(いざな)われ、追随する者たちに対して、なおコミュニティ内部に出来した「不幸」の中で生き残った者が、「自分の不幸」を金銭に換算する屈辱に抗して、「もう同じ町の人間ではない」(ラストシーンのモノローグ)と化した絶え絶えのコミュニティを復元させた映画である。

 以上が、本作に対する私の把握である。

 笛を吹いた者の名は、スティーブンス。

 アメリカに数多いる「アンビュランス・チェイサー」(救急車 を追い駆け、訴訟を起こさせる弁護士の蔑称)の如き嗅覚によって、「他人の不幸」を金銭に換算する経済合理主義の文脈のうちに、成功報酬目当てで、このコミュニティで出来した「不幸」の「解決」を、「社会の倫理観」というような欺瞞的な言辞を放って、提訴者を束ねる「営業」を請け負った男である。

 そして、絶え絶えのコミュニティを復元させるために、「不幸」の中で生き残った者の名は、ニコール。

 更に、コミュニティで出来した「不幸」とは、22名の子供の犠牲者を出した「スクールバスの転落事故」(以降、「事故」)のこと。

 ニコールは、父親との禁断の睦み(インセスト)の「楽園」に誘(いざな)われて、彼女なりにロックシンガーになるために幸福な日々を送っていた。

 しかし、「事故」によって車椅子生活を余儀なくされた結果、父親との関係に亀裂が生じていく。

 「事故」によって手に入れた補償金が僅かであったため、父親は明らかに金銭目当てでスティーブンスと接触し、訴訟に対する積極的な推進者となっていくのだ。

 ニコールは、自分の下肢障害が金銭で換算されていく世俗原理に対して、反旗を翻すに至った。

 彼女は嘘の証言をするのである。

 彼女は、娘の障害を金銭で換算させるという父親の裏切りが許せなかったのだ。

 或いは、父親が娘との間に結んだ禁断の睦みの事実を知られたくないために、自分の事故死を望んでいたのかも知れないとも、彼女は考えたのか。

 ここに、嘘の証言の際の、ニコールのモノローグがある。

 「嘘の訳は彼(父)だけが知っている。全ては私の嘘から起こった。笛を吹いていた彼の唇は、冬の月のように凍った」

 ニコールは、父親を「笛吹き」の仲間とみなしたのだ。

 思えば彼女が、父によって納屋に誘(いざな)われるときにも、2人の子供たちに「ハーメルンの笛吹き男」を読み聞かせる、ニコールのモノローグが重なっていた。

 「笛吹きは約束した。楽園に案内しようと。誰もいない楽園」

 まさにニコールにとって、父との睦みは「楽園」だったのである。

 従って、ニコールの嘘の証言とは、「娘の不幸」を金銭に換算する屈辱を全人格的に受け止めた彼女の、「楽園追放」への反逆でもあったのだ。


(人生論的映画評論/スウィート ヒアアフター('97)   アトム・エゴヤン <コミュニティの治癒力によるグリーフワークの遂行>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/97.html