秀子の車掌さん('41) 成瀬巳喜男 <ラストのスパイスが痛い、長閑なる「プロレタリア・ムービー」>

 背景は、昭和十六年頃の甲州

 そこに、一台の乗り合いバスが走っている。ドライバーの園田は車掌のおこまと視線を合わせた後、バスの客席を振り返った。誰も乗っていないのである。
 
 「ねえ、この調子じゃ、今月はまた月給が危ないわね」とおこま。
 「うーん、まずダメだね」と園田。
 「困ったわね・・・開発の車が来たわよ」

 おこまはそう言った後、後方から来るもう一台のボンネットバスを振り返った。追い抜いて行ったそのバスには、客が満席だった。「開発の車」とは、ライバル会社の「開発バス」のことである。そして全く客のいないこのバスの会社の名は、「甲北乗り合いバス」。それこそ、見るからにおんぼろバスだった。
 
 「調子が良さそうだな」と園田。
 「乗り心地も良さそうね」とおこま。
 「おこまちゃん、後ろで昼寝でもしてなよ。当分お客はありそうもないぜ」
 「うん」
 
 そう答えた途端に、停留所ではない道端でバスを待っている農夫がいた。客を拾ったまではいいが、農夫には幾つもの荷物があって、それを車掌のおこまがバスに運び入れていく。次の停留所で乗り込んできた客は、沢山の子連れのおかみさん。車内は混雑したが、乗車賃は大人二人分の二十銭のみ。
 
 「開発のバスの方が、綺麗で速くていいんだけど、このバスはいつでも空いているからね」
 「そうだよ。荷物があるときは、これに限るよ」
 
 これは、「甲北乗り合いバス」の客となった二人の大人の会話。彼らは厄介な荷物の運搬用として、当バスを利用しているのである。

 途中、バスを降りたおこまが自宅に寄って、用事を済ませて再び走り出していく。長閑な風景が車道の周囲に広がっていて、とても太平洋戦争直前のこの国の風景とは思えなかった。
 

 おこまは下宿先の雑貨店のラジオで、バスガールの名所案内の放送を聴いて、閃くものがあった。

 翌日、彼女は園田に相談して、自社のバスにも名所旧跡のガイドを取り入れることを提案したのである。
 そのアイデアに躊躇なく賛同した園田は、早速、社長の元にに相談に赴いた。
 
 「社長、ちょっとお願いの件があります」
 「何だ、園田。君はこの会社に対して、何か要求したいことでもあるのか?」
 「要求というほどのことじゃないんですけど、ちょっと要求したいことがあるんです」
 「要求とは何だよ。早く言え、早く。今日はちょっと忙しいんだよ」
 
 こんな滑稽な遣り取りの後、園田は名所案内の必要性を訴えたが、社長は相手にしなかった。園田が、「開発バスの先手を打つ」という話を加えることで、社長は一転して承諾したのである。何とも変わり身の早い社長の人となりが、ユーモアたっぷりに描き出されていて、観る方も何だか愉しい気分になってくる。
 

 園田はおこまと相談して、名所案内の文面を、市内の旅館に泊まっている小説家に頼むことにした。

 小説家の名は井川。

 その井川が一生懸命に書いてくれた文章を聞くために、二人は旅館を訪ねたのである。井川は流暢な調子で、自分が書いた文面を読んでいく。
 
 「皆様、この道路と並行に右手に見えています小さな道は、旧甲州街道であります・・・」
 
 井川はさすがに小説家らしい文面を読み上げて、それをおこまに細々(こまごま)と伝授する。口調に注意することや、詠嘆的なリズムをつけること、更に、指先で名所の場所を示すジェスチャーの必要などを説明し、おこまに自作の文面を読み上げさせた。10枚分の原稿料は無料であることを確認した二人は安堵したが、原稿を覚える立場のおこまにとっては、難しい課題が一つ加わったのである。
 
 「甲北乗り合いバス」で、おこまの名所案内のパフォーマンスが始まった。

 車内には小説家の井川も乗っていて、彼の指導によるおこまの案内の練習が続けられていく。

 順調に名所案内が進められていたとき、突然、道路に飛び出して来た子供に、園田は急ブレーキを踏んだ。おこまと井川は大きく揺さぶられ、体を倒された。それでも傾いたバスを元に戻すため三人とも下車し、バスを押し戻そうとしたが、逆にバスは沿道から外れて、畑の方に滑り落ちてしまったのだ。そのとき、おこまも一緒にバスから落ちて、不運にも怪我をしてしまったのである。
 
 早速、園田はその事故の様子を、電話で会社に報告した。

 電話に出た社長は、事故でバスが畑に落ちたと聞いて、何やら嬉しそうな様子なのだ。あのおんぼろバスが事故で故障したとなれば、保険が降りて、セコハンの車に買い替えができると考えたからだ。

 しかし、走行中の事故ではなく、乗客が降りて一端止まってからの事故であり、しかもバスは故障もせず、軽く傷がついた程度であると知った社長は、それでは保険が降りないからと、園田にエンジンをぶち壊せと命じる始末なのだ。

 そればかりは出来ないと断った園田は、乗車していた客や、周りの住民の目撃者がいるから無理だなどという理由を付言して、ゴリ押し社長に頻りに説明した。しかし、一向に社長は聞く耳を持たないのだ。
 
 偽証を求められた園田は、思いもかけない事態の展開に悩んでしまった。

 「ねえ、井川さん。偽証罪っていうのは、よほど悪い罪でしょうか?」
 「うん、それはよほど悪い罪だな。僕も法律的には良く知らんが、道徳的に言っても良くない。偽証するってことは、人を裏切ることだ。いや、人を裏切るというよりは、自分を欺くことなんだ。良くないね」
 「弱ったなぁ」と園田。
 「困ったわね」とおこま。
 「君はどうするつもりなんだ?」

  園田は立止まり、井戸の水を飲んで暫く考えた後、きっぱりと言い切った。
 
 「私は覚悟しました。嘘を言わなきゃならないなら、あんな会社辞めちゃいます」
 「あたしだって、そんな会社辞めちゃいます。他にいくらだって働くとこあるわ」
 「そうだとも。ねえ、井川さん。急にこう、胸が晴れ晴れとしてきましたよ」
 
 園田もおこまのフォローがあって、意を強くした。
 
 「そりゃ、正直っていうのは、一番気持ちのいいことだよ」と井川。
 「ねえ、園田さん、井川さんに辞職願いの良いものを考えてもらいましょうよ」とおこま。
 「そうだ。胸のスッとするような文句を、一つ書いて下さい」と園田。

 二人は完全に、覚悟を括った者のような振舞いを貫いている。
 
 「なあ、君。そう慌てなくてもいいだろう。まだ辞めろって言うかどうか分らないのだから」
 「きっと、言いますよ。だからこっちから先手を打って・・・」と園田。
 「まあ、待ちなさい。僕がその社長っていうのに会ってみるから・・・」
 「でも、それじゃ」と園田。
 「僕にもいくらか責任があるんだから」と井川。
 
 聡明な井川のアドバイスによって、二人の思いが固まったのである。

(人生論的映画評論/秀子の車掌さん('41) 成瀬巳喜男 <ラストのスパイスが痛い、長閑なる「プロレタリア・ムービー」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/blog-post_16.html