鳥('63) アルフレッド・ヒッチコック <「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄み>

 1  「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄み



 恐怖は、怒り、嫌悪、喜び、悲しみと共に、人間の基本的な感情である。

 生物学的感情を惹起させる、特定的対象に対する「得体の知れない恐さ」を持ったとき、副腎髄質から分泌されるアドレナリンによって、その特定的対象と戦う生理的反応の供給を途絶えさせる〈状況〉に自我が捕捉されてしまったら、人間はどうなるのか。

 怯え、慄き、震えるだけであろう。

 理屈で説明し得ない〈状況〉に呑み込まれた恐怖感の極点こそ、「得体の知れない恐さ」に対する無力感であると言っていい。

 この無力感を分娩させる「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄さは、何より理屈で説明し得ない〈状況〉に呑み込まれた人間の、本来的な「脆弱さ」に肉薄し得た故である。

 「鳥が、なぜ人間を襲うのか」

 この根源的問題が最後まで説明されない本作の物語構造こそ、本作の凄みであり、最大の成功因子だった。

 この本質的事態についての、トリュフォーの指摘は正しいのである。

 以下、映画関係者のバイブルのような、「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」からの引用。

 「鳥たちがなぜ急に人間を襲うようになったかという、もっともらしい理由づけをおこなわなかったことは、この映画の最大の成功だったと思います。これは明らかにスペキュレーション(空想のこと/筆者注)であり、ファンタジーであるわけですね」」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー山田宏一蓮實重彦訳 晶文社

 このトリュフォーの指摘に対する、ヒッチコック御大の反応は、「まさにそのとおりだ」の一言。

 「つぎのシーンで何が起こるか、絶対に予測できないようにつくった」

 ヒッチコックは、こうも言うのだ。

 そして、その言葉通りの映画を作り上げたのだ。

 何より、本作の凄いところは、「核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品」(ウィキ)という、「ゴジラ」(1954年製作)映画に象徴される、如何にも取って付けたような、動物を「主役」した特撮恐怖映画に堕する欺瞞性を、べったりと張り付ける愚を犯さなかったことに尽きる。

 或いは、ヒッチコック自身の観念の含みの有無を理解せずとも、「『文明』の象徴としての『バベルの塔』を作り出す、傲慢な人間に対する自然界の復讐」などという、安直なテーマ設定を拒絶した点にあると言ってもいい。

 大体、ヒッチコックの映像宇宙に、「深遠なテーマ」を要求する方がどうかしているのだ。

 更に、本作が素晴らしいのは、「『善』なるものとしての、襲撃された人間の、『悪』なるものとしての『鳥退治』」という、予定調和のハッピーエンドの解決をも蹴飛ばしているところである。

 それ故、本作は、人間の防衛機構としての「恐怖感情」を、最高の物語構成と、ヒッチコック流の凝った、映像を切り繋ぐカット割り(画面の転換効果)などの巧みな表現技巧によって、テンポの良い演出を保証することで、マキシマムに表現し切った奇跡的傑作という評価を決定づけるに至る。

 且つ、本作は、独自のスタイルを決して捨てることがなかったヒッチコックの、「実験映画」としての面目躍如たる、ヌーベルバーグ好みの一篇でもあった。

 かくて、前作の「サイコ」(1960年製作)の成功で、需要サイドからのハードルを上げられたプレッシャーを物ともせず、その上をいく「全身娯楽映画」の快作を世に放ったという訳である。



(人生論的映画評論/鳥('63) アルフレッド・ヒッチコック  <「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄み>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/04/63.html