ロゼッタ('99) ダルデンヌ兄弟 <もう誰とも繋がれない少女の自我 ――「自己防衛」のための青春の尖りの苛酷さ>

 1  少女の固い自我の奥深くまで肉薄した傑作


 「怒りのナルシズム」でしかない尖りの青春ではなく、「自己防衛」のための青春の尖りの苛酷さ。

 その苛酷さを、厳格なリアリズムで映像化した作品がある。

 ベルギーの「怒れる作家」、ダルデンヌ兄弟による「ロゼッタ」である。

 作品の中の少女は、「自己防衛」するための尖りの継続に疲弊し、遂に自傷するまで曲線的な走行を捨てられなかった哀切を、その表情の暗鬱さの内に滲み出していた。

 確かにこの作品は、私の中で内容的に些か納得し難い描写が垣間見られるものがあったが、それでも、たった一人の少女の不安定な日常性を、ひたすら手持ちカメラが追い駆けることで、それが少女の固い自我の奥深くまで肉薄し、そこに洩れ出た心臓の高鳴る鼓動音を、フィルムの乾いた黒に刻みつけたという点に於いて稀に見る傑作であると言っていい。

 

 2  池の中で身動きが取れない少女の叫び



 ―― 以下、映像の世界に入っていこう。


 少女はいつも怒り続けている。

 映像の冒頭で、理由もなく解雇された故に工場内を逃げ回り、自分のロッカーの中に潜り込んで抵抗するシーンは、少女が拘泥する意識の中枢を描き出していて印象深い。

 作り手は、観る者にいきなり勝負を挑んでくるのだ。

 私たちは少女の視線に同化し、彼女の怒りを共有するか否かについて問われるような錯覚に陥ってしまうのである。

 作り手は観る者に、余分なスタンスによるアプローチを許容してくれないのだ。

 キャンプ場のトレーラーハウスで、アル中で不道徳な母と暮らすロゼッタは、懸命な就職活動に奔走する日々が続くが、実を結ばない。

 彼女は林の中のキャンプ場に戻るとき、いつも秘密の入り口を通って、秘密の場所に隠してある長靴に履き換える。

 貧しいキャンプ生活を象徴するような長靴に履き換えた少女は、有刺鉄線で守られた池に忍び込み、そこで自分の仕掛けた捕獲瓶で鱒などを釣り上げるのである。

 とてもゲームとは思えない、彼女の荒い呼吸音が観る者に伝わってきて、生活を守るために必死に生きる少女の苛酷な日常性を想像させるのに、それは見事なまでに嵌った描写になっていた。

 映像を通して何度も繰り返されるこの描写の意味は、あまりに重い。

 それは禁断を犯して振舞う尖りが、ひたすら「自己防衛」の故の突出であることを端的に説明しているからである。
 
 しかしロゼッタという少女が守るべきものは、自分の生活だけではなかった。

 彼女は、酒びたりで、人生に希望が持てないような、自堕落な母の健康と生活をも保障しなければならないのである。

 母を施設に入院させようとして、娘はその母と揉み合った末、池の中に落ちてしまう。

 長靴に池の水が充たされて、池の中で身動きが取れないロゼッタは、走り去る母に向かって「助けて」と叫ぶが、孤独な少女に対して、どこからも援助の手が差し延べられることはないのだ。

 それは、映像のテーマをを象徴的に物語る描写だった。

 少女の自我が頑なで、しばしば鋭く尖ってしまうのは、少女が置かれた環境の苛烈さに起因するのである。 
 

 
(人生論的映画評論/ロゼッタ('99) ダルデンヌ兄弟 <もう誰とも繋がれない少女の自我 ――「自己防衛」のための青春の尖りの苛酷さ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/99.html