フル・モンティ('97)  ピーター・カッタネオ <日常と非日常の危ういラインで、困難な状況を突き抜けた者たち>

 シェフィールド大学に代表される学術都市として、今や工業都市から緑の街へ変貌したシェフィールド(画像は、映画の舞台となったシェフィールドの町)の片隅で、恐らく、低所得層向けの公共的コレクティブハウスに住む主人公のガズが、別れた女房への養育費を払えなくなった挙句、息子のネイサンとの定期的な面会も禁じられて、その窮地を脱するために考えた手段が、男たちによるストリップの公演。

 「一攫千金には、この方法しかない」

 そう考えた男が仲間を集めて、紆余曲折しながらも、最後は、「一回限りの完全ストリップ」を自己完結するまでの話である。

 考え抜かれた秀逸なシナリオによって、ユーモアとペーソス溢れる一級のヒューマンコメディが、20世紀も終わりに近い英国の映画界に誕生したのは、或いは、映画史にとって一つの画期かも知れないと思えるほどだ。

 「面白いだけの映画」なら掃いて捨てるほどあるが、作り手がそれを意図したか否かに関わらず、「単に面白いだけで終わらない、『人生論的メッセージ』を包含した映画」という作品はザラにないだろう。

 少なくとも本作は、私の中では「面白いだけの映画」ではなかったということだ。

 英国映画らしく、一切の奇麗事の言辞を吐かない見事な本作から読み取る、「人生論的メッセージ」の文脈を、私は以下のように簡潔に把握したいと思っている。

 その1  生きるためには何でもやれ。男性ストリップ、大いに結構。

 その2  やるからには、最高のパフォーマンスを見せろ、或いは、自分の持てる力を全て出し切れ。

 その3  最高のパフォーマンスに向かうプロセスでの様々な右顧左眄、紆余曲折を経て、そこで自己完結した「自分の仕事」を存分に誇れ。

 その4  「自分の仕事」を存分に誇ったスピリットを捨てることなく、〈生〉を継続させるために、必死の覚悟で「自分の仕事」を探せ。

 その5  そのためには、何よりも、まず動け。動いて、動いて、動き切って、それでも駄目なら、死ねばいい。決して失ってはならないものを失う覚悟を持って、死ねばいいのだ。そこまでやれ。

 詰まる所、生活基盤が脆弱な状況下ながら、どれほど苦境に陥ったとしても、それを何もかも、安直に、「他者や社会の責任」に還元させることなく、自力で生きていくことを諦めるな、その思いを捨てるな。

 少なくとも私にとって、そういう映画だったのだ。


(人生論的映画評論/フル・モンティ('97)  ピーター・カッタネオ <日常と非日常の危ういラインで、困難な状況を突き抜けた者たち>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/01/97.html