集団と化した時に極大化する人間の脆さ 「関東大震災朝鮮人虐殺事件」が抱え込む深い傷跡

 

1  自警団という絶対的加害者の悍ましさ

 

 

 

「橋を渡って一町ほど行くと 朝鮮人が日本人に鉄砲で撃たれた 首を切られたのも見た」

 

クローズアップ現代」(「集団の“狂気”なぜ ~関東大震災100年“虐殺”の教訓~」より)で紹介された東京・本所区横川尋常小学校(現墨田区東駒形)4年男子の当時の作文の一節である。

 

今でも虐殺の犠牲者の人数は分かていない。

 

震災による犠牲者をも超える数十万の虐殺があったとする韓国の指摘はあまりに大袈裟過ぎて受容しがたいが、内閣府に事務局を置く中央防災会議の報告書には、以下のように記されている。

 

【官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。加害者の形態は官憲によるものから官憲が保護している被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様である。(中略) 殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1〜数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない】

 

2023年9月1日、当時の松野官房長官朝鮮人虐殺についての反省を問う記者に対して、「政府内において事実関係を把握する記録は見当たらない」と述べるに留まった。

 

更に、記者の発問が続いた。

 

朝鮮人虐殺をめぐって、事実そのものを否定する歴史修正主義的な言説が出回っているが、政府として、今おっしゃった以上に事実関係を調査したり、実態を明らかにする考えはあるのか?」

 

これを受けた松野官房長官は、改めて「記録が見当たらない」と強調するのみ。

 

我が国の負の歴史と向き合おうとしないこの姿勢。

 

これが、我が国の政府の歴史認識であるということだ。

 

然るに、虐殺を示す公文書が国立国会図書館国立公文書館などに保管されていると指摘されている現実がある。

 

ラジオ放送がない当時、「朝鮮人が放火している」などの流言が各地に広がり、内務省朝鮮人の取り締まりを強化するするべく全国に通知した事実の重さ。

 

【ラジオ放送が開始されたのはは1925年である】

 

内務省警保局長名による、以下のような電文も打電されていた。

 

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密(しゅうみつ)なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」

 

この通達こそが、絶対的に情報弱者たる環境下にあって、地域住民が自警団として組織され、彼らを理不尽極まる虐殺へと追いやった最大の要因である。

 

闇然(あんぜん)たる思いを拭えないのだ。

 

それ以外にない情報源であった新聞社が朝鮮人の放火を報じる記事が出回ったから、もう、始末に負えなくなった。

 

朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」

 

東京朝日新聞記者の目撃情報が号外で頒布(はんぷ)されたのである。

 

かくて、内務省警保局の通達をもとに、関東地方に4000もの自警団が組織され、朝鮮人の放火を怖れる自警団による集団暴行事件が連鎖反応的に誘発され、デマの禁止を呼びかけた警視庁の思惑を超えて各地で惹起していく。

 

元来、自警団は地区の消防団青年団在郷軍人会を中心として被災者救助に従事していた一般市民である。

 

ここで重要な立ち位置にあるのは在郷軍人

 

彼らは徴兵検査に合格して軍隊教育を受けた後、地域に戻って予備役などについた者のことで、彼らを統括する「在郷軍人分会」は町村のリーダー的な存在だった。

 

またシベリア出兵での従軍経験を通ってきた彼らは、独立運動を戦っていた朝鮮人を虐殺した経験を有しているから厄介だった。

 

この辺りについては、森達也監督の映画「福田村事件」で執拗に描かれている。

 

相手が朝鮮人か否かを判別するために、件(くだん)の在郷軍人が統括する自警団が行った手法が「シボレス」(言葉の発音などの文化的差異の指標)だった事実はよく知られるところ。

 

道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせて相手を特定するのである。

 

この判別手法で「不逞鮮人」とされた朝鮮人が自警団の餌食になって葬られていく。

 

自警団という絶対的加害者の悍(おぞ)ましさ。

 

不条理なる極北の景色がそこにある。

 

そればかりではない。

 

「本庄事件」 (1923年9月4日)に至っては、本庄警察署が署の周辺に蝟集(いしゅう)し、暴徒化した群衆によって襲撃されるという最悪の事態が出来したのである。

 

自警団などによる危害を怖れた朝鮮人労働者らを、地元警察が保護していたからである。

 

日本への渡航を余儀なくされていた朝鮮人にとって、その駆け込み先が地元の警察署しかなかったのだ。

 

地元警察が保護してくれなかったら、映画「福田村事件」で描かれたように、簡便な「シボレス」をスルーし、無数の犠牲者が群れと化して水面(みなも)に浮く運命を免れなかったであろう。

 

酷薄なる人生だったという外にない。

 

【犠牲になった朝鮮人犠牲者は、朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会の調査によると「88名プラス不確定が14名程度」とされる】

 

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