日本暗殺秘録('69) 中島貞夫 <ストレス発散映画としての本領を発揮した情感系暴走ムービーの短絡性、或いは、「やる」ことが全てである者たちの「甘えの心理学」>

 1  「純粋動機論」のロールモデルとしての「心優しきテロリスト」



 この映画は本質的に、1960年代半ば以降、他の映画会社を圧倒し、数多の「ヤクザ映画」を占有した感のある、東映の「任侠路線映画」の延長線上にある作品と言っていい。

 この映画に登場するテロリストの多くは、当時の任侠スターの面々であり、またテロリストによって殺される俳優は、さしずめ、「任侠映画」の中で「悪徳ヤクザ」を演じる相貌の主であるからだ。

 当時、この「悪徳ヤクザ」の理不尽な振舞いに対して、我慢に我慢を重ねた末、「死んでもらいます」と言って、日本刀を手に「決起」したヒーローを描く「任侠映画」が、全共闘運動の全盛期の新左翼の若者に頗(すこぶ)る支持されたように、本作もまた、この類の物語の構造性を逸脱するものになっていない。

 ところが、それまでの「任侠映画」と違うのは、本作の中に「政治」が入り込んでいることである。

 ただ、「政治」がに入り込んでいると言っても、そこで描かれるテロの借景レベルのナレーションや会話が挿入されるだけで、当然の如く、詳細な歴史的検証の視座による、テロの背景となる複雑な社会的・経済的背景への言及はスル―しているから、物語のシンプルな枠組みが「任侠路線映画」のカテゴリーに収斂されている構造には特段の変容はない。

 そこで描かれているのは、「政治権力の腐敗と、欲望の限りを尽くす財閥の横暴」⇔「窮乏化する民衆の塗炭の苦しみ」という、階級社会における「権力関係」の矮小化した図式と、この理不尽な関係を「革命」によって打破せんとする者たちの単純な提示であって、それ以外ではないのだ。

 この単純な提示の中で、「悪徳ヤクザ」に模した「政治権力の腐敗と、欲望の限りを尽くす財閥の横暴」に対して、我慢に我慢を重ねた末に、「もう、待てん」と憂慮する青年たちの焦りや不安、そして、彼らへのテロに至るまでの内面的風景の暑苦しいまでの活写こそ、この映画の全てであると言っていい。

 かくて、「今の荒廃した社会は許せない」という一点のみで、際物映画でもある本作は、右翼の活動家たちにも大ウケする映画になり得たのである。

 何のことはない。

 極右も極左も、拠って立つイデオロギーの推進力となる理念に差異があろうとも、それ以上に、テロルを回避できないと括る肝心要のモチベーションにおいて決定的な乖離が見られないのである。

 そこに、極右と極左の、薄気味悪い程の親和関係が見い出せるのだ。

 その親和関係を決定付けるフレーズは、唯一つ。

 「何をしたかによってではなく、何をしようとしたか」という問題こそ重要であるとする「純粋動機論」である。

 そして、この映画がそのような文脈において成功を収めたとするならば(因みに、本作は1969年の興行成績の9位であった)、映画の大半を占める「血盟団事件」による、「一人一殺」の「心優しきテロリスト」を主人公に据えたことである。
 その名は小沼正。

 彼こそまさに、「純粋動機論」のロールモデルと言っていい。

 以下、その苦労多き青春期の軌跡を、稿を変えて簡潔に書いておこう。
 
 
 
(人生論的映画評論/日本暗殺秘録('69) 中島貞夫  <ストレス発散映画としての本領を発揮した情感系暴走ムービーの短絡性、或いは、「やる」ことが全てである者たちの「甘えの心理学」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/10/69.html