アフガン零年('03) セディク・バルマク <「恐怖心」を表現し切った少女の訴求力>

 1  「オサマ」という名の「少年」が誕生したとき



 「忘れられずとも許せはしよう」(N・マンデラ

 これが、冒頭のキャプション。

 「政治運動ではありません。私たちはひもじい」

 ブルカに覆われた女性たちのデモでの、遠慮げなシュプレヒコール

 彼女たちのプラカードには、「夫を失くした私たちに仕事を下さい」と書かれてあった。

 矢庭にタリバンの鎮圧が荒れ狂い、銃と放水によって制圧されていく。

 暴行され、捕捉される女性たち。
 
その女性たちの中に、放水でずぶ濡れになった少女マリナと、その毋親の姿があった。(画像)

 自宅に戻ったマリナは、母の嘆息を聞くことになる。

 「ウチの人さえ生きていたら・・・あの人はカブールの戦いで殺され・・・ソビエトの戦いでは、兄さんが殺された。残されたのは、女3人・・・」

 最後は嗚咽になった。

 「せめて、この子が男なら働きに出せるのに。神様は、なぜ女をお創りに」

 母の嘆息は、「労働力」としての娘への期待感を洩らすが、それを聞く祖母の提案は突飛なものだった。

 「何を言うんだい。男も女も同じ人間。差はありゃしない。私はこの年まで差など感じた事ない。神様は平等だよ。男も女も同じように働ける。同じように不幸になる。髭を落として、ベールを被れば、男が女に。長い髪を短く刈って、女が男になる。私がこの子の髪を切ろう」

 反発するマリナ。

 「嫌だ。タリバンに見つかれば殺されちゃう」

 祖母の提案は、親族の男性の同伴なしに外出を許可されないタリバン政権下にあって、ギリギリに追い詰められた女だけの3人家族の、それ以外に生活の糧を持ち得ない最後の選択肢だったのだ。

 「大丈夫。心配いらないよ。自分は女の子じゃない。男の子だと思えばいいのさ。人は見た眼を信じる。お前が働いてくれないと、一家飢え死にだからね。子守唄代わりに、昔話をしてあげよう。昔々、その昔、ある所に奇麗な顔の少年がいました。父親が亡くなり、少年が一家を養うことになりました。働き疲れた少年は、神様に願いました。“働かずにすむ少女にして下さい”ある日、賢者に出会い、こう言われます。“虹を渡れば少女になれる”虹は何でできていると?伝説の英雄、ロスタムが残した弓だと言われている。“虹を渡れば、悩みは消えてなくなる。少女は少年に、少年は少女になれる”」

 祖母は、“虹を渡れば少女は少年に、少年は少女になれる”という寓話を例に出して、少女もまた少年になれるという危険なトリックを具現しようと言うのだ。
 女だけの3人家族に関わる、以上の特殊な背景が、「オサマ」(本作の原題)という名の「少年」が誕生した経緯である。
 
 
 
(人生論的映画評論/アフガン零年('03) セディク・バルマク <「恐怖心」を表現し切った少女の訴求力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/03.html