マンハッタン('79) ウディ・アレン <「おとぎ噺の世界」と、中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、人生の哀感を表現し切った傑作>

 1  成人女性への潜在的恐怖感を埋めるに足る、ローリスク・ローリターンの「恋」の終焉



 小心で神経質、コンプレックスが強く、臆病でありながら、人一倍の見栄っ張り。

 そんな男に限って、自分が「何者か」であることを求めている。

 件の男が主人公の本作もまた、「小説家を目指しているシナリオライター」という自己像が張り付いていて、勢い余って、テレビ局との関係を切ってしまった。

 虚栄と同居する小心さを持つ男は、このときばかりは前者の推進力によって駆動したのだろう。

 どこにでもいそうな、そんな喰えない男が、人生の中で、2度に及ぶ結婚生活に破綻を来たした。

 それだけだったら特段の問題も出来しないが、2度目の妻との離婚理由が看過し難かった。

 最初の妻がドラッグ中毒であったことも、男のプライドを傷つけたのだろうが、2度目の妻の場合は、相手が同性愛の女性であったからだ。

 この現実は、その妻との間に子を儲けていながら、男の自我に相当のダメージを与えたに違いない。

 男には、この忌まわしき経験が、トラウマと言うべきネガティブな何かになっていく。

 そのトラウマの根源には、紛う方なく、バイセクシャルの性癖を具有する前妻が、人生の伴侶に「男」である自分よりも、同性の「女」を選んだことが横臥(おうが)しているだろう。

 そのことは、男の「男性性」が否定されたことにあると、男は考えたに違いない。

 男の自我に貯留された憤怒の感情が、前妻の不倫を疑った男がスパイ中に知った事実にショックを受け、前妻の不倫相手への女性を轢き殺そうとした行為に現れていた。

 「何で、僕より彼女の方が良いんだ?」

 あまりに端的な、男の感情表出である。

 加えて、その前妻が自伝を出版すると知った男は、自分の性体験や「奇行」が暴露されることに不安を持ち、繰り返し、前妻の元に抗議に行くが、逆に、レズ相手を轢き殺そうとしたことを難詰(なんきつ)される始末。

 そんな男にとって、前妻から否定された「男性性」の魅力を取り戻すためなのか、最もリスクが少なそうな相手を選び、彼女を自分の恋人にした。

 「男性性」であることを証明することは、自分が「何者か」であることを求めている男にとって、自我アイデンティティに関わる人生の一大事なのである。

 そう思わざるを得ないのだ。
 
 
(人生論的映画評論/マンハッタン('79) ウディ・アレン <「おとぎ噺の世界」と、中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、人生の哀感を表現し切った傑作>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/11/79.html