アニー・ホール('77) ウディ・アレン <自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男>

 1  コメディの本道を外さない、毒気に満ちた心理描写の連射



 「ナイトクラブのコメディアン、アルビーと歌手志望のアニーがここニューヨークで出逢い、ナーバスな恋が始まった。なんとなくうまくいっていた2人だが、アニーは人気歌手トニーからハリウッド行きを勧められ、引き止めるアルビーも虚しく旅立つ決意をしてしまった・・・。刺激に富んだウイットとちょっと危ないユーモアで綴るウッディ・アレンの代表作」(ワーナーホームビデオ・ジャケットより)

 こんな簡単な説明でプロットが要約できるラブコメディだが、ナイトクラブのコメディアン、アルビーの心理描写の連射によって、スラップスティック的な滑稽な台詞や、大袈裟な仕草のフラットな散布に流すことなく、既成のコメディー・ムービーのシンプルな文法を変容させた革命的一篇。

 しかしそれでも、映像で連射される心理描写を、当然の如く、寡黙な映像のカテゴリーに収斂させず、初めから終わりまで、アイロニーブラック・ユーモアスノッブ的な衒気(げんき)による留まることのない饒舌の洪水や、映像分割、状況や時系列を無視したシュールな描写、観客に直接語りかける「第四の壁」(観客席との間に存在すると仮定する眼に見えない壁)の突き抜けによる描写のリアリズムの否定、等々といった映像技法の駆使によって貫徹した、如何にもウディ・アレンらしいアンチ・ハリウッドの挑発的映像の括りもまた、コメディの本道を外さない毒気に満ちていた。

 因みに、映像の括りは、以下のアルビーの言葉によって閉じられている。

 「精神科医に男が、『弟は自分が雌鶏だと思いこんでいます』
 医師は、『入院させなさい』
 男は、『でも、卵は欲しいのでね』

 男と女の関係も、この話と似ています。およそ非理性的で、不合理なことばかり。それでも付き合うのは、卵が欲しいからでしょう」
 
 要するに、「アカデミー作品賞」という名におよそ相応しくない映像の作り手を確信的に自認するからこそ、ウディ・アレンは世界映画祭の最大級のレッドカーペット・セレモニーに出席しなかったのだろう。
 
 
(人生論的映画評論/アニー・ホール('77) ウディ・アレン   <自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/11/77.html